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目玉焼き

私は朝ではなくあえて夜に目玉焼きを食べる。初めて夜に目玉焼きを食した際、朝でも夜でも味は変わらないのだと、至極当然のことを感じた。
そんな目玉焼きを焼いている間にふと、目玉焼きについて考えてみたくなった。

目玉を焼いて食べる

「目玉焼き」に不足した文字を補うとこうなる。
我々は目玉焼きという言葉をさも当たり前であるかのように使うがその実恐ろしい言葉を発している。
あの見た目で目玉という動物の目玉という本来の意味が失われ「目玉焼き」と名詞化させることで目玉焼きを目玉焼きたるものにしたのである。
卵焼きと述べると、我々は卵の黄身をつぶして白身とかき混ぜ焼いたものを想起する。もし目玉焼きという言葉が存在しておらず目玉焼きをも卵焼きと呼ぶ世であったとしたならば、果たしてどうなるのであろうか。
そんなつまらぬことを考えてしまった。

目玉との乖離

目玉焼きに対して我々が目玉と呼んでいるのにも関わらず畏怖の念を抱かないのはなぜなのだろう。

目玉                     焼き

このように目玉と焼きの間に多少空白を入れてやると我々は幾分か目玉焼きを想起しづらくなる。
やはり目玉焼きは「目玉焼き」という名詞1セットで目玉焼きを想起させるのである。
目玉焼きという単語を覚えるとき、「目玉」と「焼く」という単語を知っていたなら我々は多少戸惑うはずである。しかし、多くの人はその単語を「卵を混ぜずに焼いたもの」としてしっかりと憶えている。いつの日か目玉焼きを「そういうもの」として認識したからである。まさか目玉を焼いたものだと記憶したまま人生を過ごす者などいない。
となると、やはり始まりは外にある。「目玉焼き」という言葉も後天的であり、目玉焼きという物質も外界に存在する。
我々の思考は外界の規定を受けている。言われてみればこれも当然の事かもしれない。
しかし、目玉焼きという名前を施した人物のネーミングセンスには興を感じずにはいられない。そこには一種の面白可笑しさが内包されていたのだろう。
ひとしきりこんなことを考えると、今日もあえて夜に目玉焼きを食そうと思った。


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