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望言命法 後編

では好ましい望言命法、つまり頭の中に「~したい」という欲求が浮かんで来た際に何でもかんでも従うのはまずいから、従うことが好ましいと思われる望言命法を一般化して考えてみる。

尚、あくまでこの記事を書いている「筆者」の考えるペルソナは毎日物的には満たされている者の精神的には満たされないような人間に対してであり、今日明日の命で生きることで精一杯という人に向けたものではない。(もっともその人たちも「生きたい」という望言命法に従って生きているのならそれに越したことはない)
加えてそもそも「~したい」というのは「~せよ」といった命令形ではないことから、望言命法と名付けるのは適切ではないという反論が想定できるが、ちょっと待ってほしい。私は先ほど、望言命法は定言命法の一部だと言った。確かに、文法的には「~したい」とは命令形ではない。しかし、「~したい」と感じたということは、その欲求を伝えた何かが存在するはずだ。「~したい」という言語化を行う前にその言語化を伝達、言ってしまえば命令する自己が自己内に存在する。私はそういう意味で望言命法と申し上げたいのだ。
本題に戻る。

①他人に大きな損害を与えない望言命法
まずこれは最低ライン。皆まで言わなくても解るとは思うし、興が湧かないので根拠を述べることを放棄する。しかし、この①の逆(他人に損害を与える望言命法)が現出する者など良心がひねくれすぎていなければいないと思われる。

②自己実現の望言命法
自分を高みへと導いてくれるような望言命法が現出した場合、真っ先にそれに従わなくてはならない。「~」の部分が具体的であるならすぐにその通りに行為し、抽象的であるならそれに関連した行為をすればよい。
②の望言命法に従って生きることは最終的に心を穏やかなものにする。

③他を巻き込むような望言命法
①とは違って、そこまで迷惑ではなく場合によってはメリットを与えることができるような望言命法。その基準(望言命法が③に当てはまるかどうか)は当然自分で決めてよい。しかしあなたの心にその望言命法が表出したということはあなたはそれをすることを望んでいるということだから、それはした方が善いということになる。それがあなたの道徳法則なのだ。よってこれも好ましい望言命法と言える。

このように「~したい」に従って生きることについての是非を含め思索にふけってみた。日本で暮らす多くの人は誰しも②、③の望言命法が現出したことがあるのではないかと私は考えている。ペルソナをわざわざ設定したのもそのためだ。そしていかにその②、③に従いやすいような環境を構築していくのかが、私の役目の1つなのではないかとこの頃考えるのである。

この先もう年を取る一方ではあるが、くれぐれも妄言命法とならないように、思慮を重ねて生きることに努めたいものだ。


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