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行為と思考

以前の記事でも述べたが、私は日々左手で食事をとるように努めている。その理由は右脳を使いたいからとかといった理由ではなく、左手を右手のように使えないことに興じたためである。
そんな幼稚な心で日々を過ごす私はある日ふと左手で文字を書いてみたくなった。微細な力加減ができないことを考慮してシャープペンシルよりは鉛筆で書きたいと考えた。
丸っこい鉛筆を鉛筆削りでゴォゴォと削っていざ、真っ白な紙に「あ」の字を書いてみた。するとどうであろう。ただでさえ右手で書く字の汚い私は左手で書くとそれはもう見ることすら嫌悪してしまうであろう程の字体であった。小学2,3年生の時に書いていたあの崩れた字を左手で書いた字体は彷彿とさせた。
そして私は記事の台本を左手で鉛筆を使って書いてみようとした。しかしながらこれは私にとってとてももどかしい事態を引き起こすこととなった。行動が思考に追いつかないのだ。せっかく私が考えた文章が左手で書くのが遅すぎるせいで字として残すことができない。
加えてこれには私も驚いたのだが「馬鹿になる」。
思考スピードが書くスピードに合わせて格段に落ち、思考回路までも非常に浅いものとなってしまっていた。後で文章を見返したときは小学生低学年時の作文として提出できると思ってしまったほどであった。このとき私はある主張を思いついた。それは

行為は思考を規定する

ということである。右手に鉛筆を持ち替えてものを書き始めみると思考スピードは少なくとも左手で書いている時よりは上昇した。
また、このことにとどまらず様々な場面でこの主張が通るのではないだろうか。極端な話小さな部屋から一歩も出たことが無い人がいるのならそのひとの思考は間違いなく規定されている。外の世界を知らない。知るためには外に出るという行動が必要になる。
罪を犯したと判断されるような行為をした人間が所謂犯罪者の思考にずぶずぶと染まっていくのはこのためである。行為とは自認の手前にあるものだ。
無論、思考があっての行為も多々見られる。しかし、行為から思考に働きかけることも十分にあり得るのだ。
このように根拠や事実を並びたてて主張を補強するのはこのくらいにしておこう。当たり前だともう人もいることだろうから。

さらに言いたいこと

私がここで言いたいこと。それは「とりあえずいろんなことにチャレジしてみよう!」とか「やっときゃよかったと後で後悔するかもしれない」とった啓発的なことを言いたいのではなく、強いて言うのなら「やっちまえ」と言うことである。(言うまでもないが犯罪は対象外)
マルティン・ハイデッガーは我々人間の事を投企的存在、つまり人間は自分が選んだわけでもない世界に否応なく投げこまれてしまった存在であるとした。
否応なく投げ込まれてしまったのならさらに身を何かに投げ込んでしまおうというのがここで私が言いたかったことである。
この「さらに自己を投企する」ことを達成し得る手段として行為がある。迷ったなら損得を考えてはいけない。そもそも迷うということはあなたが対象としている事物に価値を感じているということである。とりあえず身を投げ込めばよいのだ。どんどん意味の分からない世界を自分で創造してゆく。
しかし「行為は思考を規定する」ということは思考は嫌でもあなたのした行為に意味づけをする。どんなに引き離そうとリードでつながれているかのように思考は付いてくる。「行為が思考を規定する」とはそういった側面をも併せ持つのだ。

これをうまく利用すれば思考の幅はみるみる広がっていくだろう。
「やっちまえ」
意味などどうせ後でついてくる。
そしてこんなことを常日頃から考えているから、私はおよそ社会には溶け込みきれないのであろう。



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