心的エネルギー水準概念についてのツイートとリプライ

以下は、わたしがツイートにおいて引用した笠原嘉『精神科における予診・初診・初期治療』、星和書店、2007年、104-106頁の記述と図に端を発した、あるフォロワーの方とのやりとりの抜粋と、いただいたご質問への回答を記したものです。お答えしようとしてかなり長くなってしまったことと、わたしの理解の至らない点に関してみなさまからご批判を受けたいと思い、先方のお許しを得てnoteにまとめさせていただくこととしました。なお文体はリプライを想定したもので、修正せずそのままとしています。先方からのご質問については、大意を変えないかぎりで一部の表現を当方で編集していることをあらかじめお断りします。

最初に、わたしがこのようなツイートをしました。

これについて、あるフォロワーの方からご質問を頂戴しました(ありがとうございます)。

——心的エネルギー水準が下がると、健康状態のときにはそこまで大きいと思わなかった岩肌がどんどん見えるようになってくる、という図ですか?

これに対して、わたしは次のようにお返事しました。

上の中井久夫の引用は、中井久夫『精神科治療の覚書』日本評論社、1982年、159頁(116頁にも同様の記述あり)によります。
ここで、さらに次のようなご質問をいただきました。

——心的水準が上がるというのは、具体的にはどのようなことを指すのでしょうか?
——同書には、岩の存在がその人自身の心のキャパシティーの容量を狭めているという側面も書かれていますか?

いただいたご質問について、いったん持ち帰らせていただき、改めてお返事させていただくこととしました。次行からがお返事の本文となります。

*   *   *

一つ目のご質問については、ちゃんとお答えしようと思うといろいろな前置きが必要となり、結果として長くなってしまいました。端的には「具体的には、笠原 (2007)……」で始まる部分だけが直接的なお答えになりますが、せっかくなのでジャネやエイらの言っているところを振り返ってみたいと思います。
 ジャネは、エネルギー(心的生活の動向)の量的な面を精神力(心的力)、質的な面を心理的緊張と呼んでいます(なので実のところ、単なる水と岩よりはもう少し複雑で、概念の微妙なずれもあります)。精神力は、意志力にあたるエネルギーの全量、心理的緊張は、行為の種類によって適切に配分するエネルギー使用、種々の動向を心的総合し有効に実践する機能というふうに言えそうです。
 村上仁によれば、ジャネの理論において「意識とはまず総合の機能にほかならない」のであり、「ジャネによれば、二重人格、心因性記憶脱失、その他ヒステリー、精神衰弱症さらに精神病の症状は、すべてこの総合の能力の弱さ乃至減弱にほかならない」(孫引きでお恥ずかしいのですが、内村祐之『精神医学の基本問題』、医学書院、1972年、66頁より)といいます。心理的緊張が減弱すると、過剰な精神力が、よりオートノミックな(自動性のある)低次の心的機能を作動させてしまい、それが一見新しい症状として表出されます。ただ、ジャネ自身は心理的緊張の低下が起こる機序についてはあまりよくわからない、と慎重に述べていたようです。私見ですが、先の図との整合をはかるなら、それぞれの作動しやすい低次の機能により(岩の形の特徴により)、それぞれのケースで前景となる症状(水面から露出する岩肌)が異なるというふうに考えられると思います(やや比喩の限界にきています…)。ジャネ自身の記述を引けば、「さまざまな自動症現象がただ精神力の減弱によるものであるとすれば、それらは患者ばかりでなく正常人にも存在するはずである。実際、自動症現象は患者だけにみられるものではなく、正常人にも存在しているが、他の複雑な現象で覆われ見過ごされているだけである……患者のような自動症を持ってはいるが、それ以上に高次の機能を持っているのである」(ピエール・ジャネ『心理学的自動症』松本雅彦訳、みすず書房、2013年、442頁)というところは、水面下に岩が隠れているという比喩がマッチするといえるかもしれません。
 ここでいう低次(また高次)というのは、彼の発達心理学的考察によるもので、人間の行動には低次から高次の段階的な序列があるという見解に基づきます。最も低次のものは反射的な行動、より高次には例えば、他者を観察して模倣したり、より複雑になれば共同作業をしたり、さらに自己を統御したり、といった社会的・個体的行動、もっと上の段階ではより知性的な行動が、そして意志や理性の段階のものが、最高次には実験や創造を行う段階がある、というようなものです(註:簡略化しています)。
 よってジャネにとって、病的過程は人格構造の退行過程であり、回復過程はその逆、といってもそれほど的を外してはいないと思います。病的過程で最も影響を受けやすいものは「現実機能」と呼ばれ、その解体により、低級な心的機能がさまざまに発現します。よって、先の図でいう心的水準の向上を心理的緊張の回復と解するならば、その上昇によってより高次の心的機能が取り戻される、原始的知性の状態からより高度な知性へ、そして反省、推論、仕事遂行、自発的努力、実験的精神の行使などができるようになる、と言い換えることができそうです。複雑な問題への対処には、より高い心理的緊張が必要となります。心理的緊張が回復し、心的総合の機能を取り戻すことにより、葛藤に取り込まれないで対処したり、社会性が回復したり、重大な問題と思っていたものについて、心に時にはひっかかるものの、水準が低下していたときと比べて、「あれほど切迫的に、しかも頭にこびりついたような格好で考えなければならな」いほど(笠原前掲書、106頁)のものではなくなってくると考えられます。
 さらに笠原は、向精神薬についても心理的エネルギー水準概念による検討の余地があるといいます。「抗精神病薬(抗幻覚剤)は脳の局所に作用することによってその局所に局在するマイナス条件を補填ないし正常化し、それが厳格出現の条件を消滅させる。そういう考え方に加えて、作用は局所であっても、全体的な精神的エネルギー水準の向上という結果を介して、その人の現実検討力を高め、それが幻覚という非現実的心理現象を無効にする、と考えることも十分できるだろう」(笠原嘉『「全体の科学」のために』、みすず書房、2013年、155頁)と論じています。現代精神薬理学の立場からこの仮説をどう検討できるのかはにわかには言いがたいですが…。
 具体的には、笠原 (2007)『精神科における予診・初診・初期治療』の症例としては、突然の脳卒中による実母の死のあと、「自分がもっと気をつけていれば」という悔悟の念が頭から離れなくなり、不眠となり、半年たっても後悔がこびりついて強迫的に回帰し、仕事を続ける自身がなくなってしまった、という男性が紹介されています。詳細は省きますが、笠原嘉の診断は母の死によって「誘発された内因性うつ病」であり、休息と抗鬱剤での治療により、一ヶ月もすると「母の死という観念が、頭にこびりつく感じがなくな」って、「朝の疲労感や内的抑制はまだかなり残っている段階でも『母の死』への強迫的な反芻はすっかりなくな」り、「妻や子供との現実関係の方に目が向けはじめ、自殺観念も消えた。以後、4ヶ月で復務、6ヶ月で薬もなくした。以来5年になるが、もとどおりやっている」という経過をたどりました(笠原 (2007) 104-106頁)。「1回か2回のうつ病相を経験するだけの平均的なケースなら、このケースのように、了解的に深入りする要のないことが多い」(ibid.)と総括されています。
 笠原によるうつ病についての心理的水準と治療経過の図では、水準の向上に伴って、イライラ→不安→ゆううつ→手がつかない→根気がない→興味がない→面白くない→生きがいがない、と推移し、喜びの欠如のレベルを越えて治癒へ向かう、とモデル化されています(笠原嘉 (2013) 244頁、図3)。また同書の別論文で、統合失調症者への治療が奏効するのと並行して、「柔らかい表情、自然な態度、打てば響くような会話などの出現……私は優雅さ(Grazie)の出現と呼ぶ。生きとし生けるものがもつ『しなやかさ』の回復であり、他者へ向けてのその表出である」(同書、190頁)とあり、これも一種の水準の向上と言えるのかもしれません。「躁うつ病の治療の際に必要な『心理的エネルギー水準の上昇』という要件も、社会脳によって支えられる生体エネルギーというべきかもしれない」(ibid.)ともあります。
 他方、ジャネと内村によれば、心的力そのものが低下する場合は、ネガティヴな症状が現れ、「衰弱」がもたらされます。おそらくガス欠のような状態と思われますが、こちらについてはすみませんが不勉強であまりお話しできません。心的機能の高次であれ低次であれ、心的力自体が衰弱していれば、機能もまた弱まるとも言えそうですし、あるいは、心理的緊張を高めつつ適応的な行動をとっていくこと自体に心的力の供給が必要とも考えられるので、心的力の増減にしたがって心理的緊張も動揺する、とも言えるかもしれません。このあたりの関係はまだ追究の余地がありそうです…。

うつ病の心理症状の消えていく順序(笠原嘉 (2013)「精神医学における内因性概念について今一度」『「全体の科学」のために』みすず書房、244頁)


エイの議論はジャネのそれと類似しているところも多い(エイは著書のなかでジャネの階層論におおむね賛意を示しています)ですが、理論の流れとしてはジャクソニズムをくむものです。「エイがまず考えたことは、精神機能なるものは……歴史的発展による成熟というエネルギー的過程を意味するものであり、この過程によって精神構造の階層(Hierarchie)が産み出され、しかもその各々の階層の時間相において定型的の現存在が形成されるということ」(内村前掲書、220頁)でした。彼自身の言葉を引けば、「さまざまな水準は各々、それと認め得る比較的安定した定型的構造をあらわしている」(アンリ・エー『ジャクソンと精神医学』大橋博司ほか訳、みすず書房、1979年、142頁)ということになります。「正常な心的活動とは……現実への適応の法則を有する努力であり均衡である。正常な心的活動を特徴づけているのは、その成熟と可塑性の度合である」(同書、140頁)とあり、上位の心的活動について、ジャネの「現実機能」に相応するような記述がみられます。心的水準が上がるとは、後に述べる「退行」ないし解体の状態から、成熟し可塑性の高い水準へ回復していくこと、と解することができそうです。
 遡れば、先駆者たるジャクソンは進化論的な見地から病理を解明しようとしました。なのでオリジナルの思想としては、高次、低次というのは進化論的な高級、低級におおむね対応すると考えてよさそうです。彼は、より自動的な低次の中枢ほど強固に組織され、より随意的な高次の中枢ほど脆弱に組織されている、として神経系の進化を捉えました。高級な機能ほど病的過程によって損なわれやすく、その障害によって、より低級の機能が発現する、という原理を導入することにより、神経学的症状や精神病的症状(のうちの陽性症状、すなわち下位機能の解放。反対に、陰性症状は上位機能の喪失そのものによる)をも一種の「退行」ないし解体として説明しようとしたのです。ただしエイは、「ある解体水準の構造とは、ジャクソンの基本原理から言えば退行ということになるが、退行とは決して進化のある相を正確に復元したものではない」(同書、142頁)と注意を促しています。笠原前掲書の図と対応させるなら、各水位における岩肌の形が各々の水準の定型的構造にあたる、ということになるでしょうか。
 さらにエイは、退行には全体的退行と部分的退行とがある、という区別を明確化し、局所的退行が神経学的、全体的退行が精神病学的な対象である、と論じてジャクソンの学説を補い発展させています。全体的退行が例の図における全体の水位、と考えることは一応可能かもしれません。そしてエネルギー的退行過程により、高次の心的機能が損なわれ、統合も崩壊し、自己と世界との関係そのものが変化するかのような体験を生ずることになります。「すべての精神構造の変化は、社会的または感情的関係の変化として表現されるものであり、しかもこの関係は、世界との連繋という意味で、患者の『世界内存在』にかかわるものである」(内村前掲書、227頁)からです。
 種々の精神病を一元的に説明しようとするエイの論は大胆な仮説に基づいており、反論も多いとは思われますが、笠原嘉も「心的エネルギー論をもう少し活用しては」「部分的な認知機能と並んで、全体的な病人の『心理的エネルギー水準のそのつどの高低』を推測する仕方もまた実際的だと思う」(笠原 (2007) 90-91頁)と述べているように、そういう考え方もあるのだと知っておくことには少なからず実践的価値があるような気がしています。(エイによる)「一種の階層的秩序があるという見方……は、ときと場合によって、臨床に有用であった。あり症状が消失した後にはどういう症状が出現する可能性が高いか、を想定できるからである」(笠原 (2013) 155頁)という有用性もあるようです。

書きなぐりで十分に吟味していない文章のため大変読みづらかったかと思います、ごめんなさい。わたしも改めて調べたりしたのでとても勉強になりました(そして己の知ったかぶりを痛感しました…もっとお詳しい方にリプを査読してほしい!)。ありがとうございます。このあたりの話について、オンラインにあってアクセスしやすく、まとまっている文献がないかとちょっと検索してみたところ、以下のものが見つかりました。よろしければ参考になさってください:水田善次郎 (1995) 人格の層学説についての文献的研究(上). 長崎大学教育学部教育科学研究報告, 48, pp.103-115。

二つ目のご質問についてすっかり失念していました。少なくとも笠原嘉の前掲書においては、岩が心の容量を狭めている、という記述はみられません。ジャネやエイらの議論についてもにわかには見当たりません。図の岩は、「一見心因性を荷なうかに見える『内容』」と書かれています。つまり、岩は心因そのもの(原因となるような体験や刺激)ではありません。その人の心の容量が図の水を容れている器で、岩はその心を埋めていく観念、というわけではなく、岩というのは心理的緊張の低下あるいは退行・解体によって自動性をもつように作動しはじめ、陽性症状として表現される低次の心的活動をなす下位構造の比喩なのだと思います。水位が上がって水面下に隠れることにより、重大な問題だと考えていたことがあまり気にならなくなる、という記述をみるとき、あたかも岩が心因であるかのように見えそうですが、おそらくそうではなく、高次の心的機能が回復することにより、より低次で、適応度の低い心的機能による対処がなりを潜めて目立たなくなって、より成熟した対応をとることができるようになっている、ということなのだろうと思います。またこの図では、前述のような心理的緊張による心的統合とか、階層論の細かい論点についてはカバーできていないように感じます。このあたりはあくまで一側面の説明のためのたとえの図だと割り切って考えたほうがいいのかもしれません。

*   *   *

以上、わたしなりに調べてしたためたお返事ではありますが、笠原、ジャネ、エイの議論についての理解で不十分な点や誤っている点があるかもしれません。読者の方で、もしご覧になって何かお気づきの点がございましたら、忌憚なくご教示いただけますと幸いです。

ところで、笠原 (2007)のいう「了解的に深入りする要のない」ケースという観点からは、以下に引用するような、外科手術において、治療に関して十分、かつ手術による侵襲を最小限に抑えた十分な術式を選択することにも通ずるような論点も抽出できるかもしれません。こちらはフロイトの系列で、エイらの議論とは異なる流れであるため、心的エネルギー水準の議論と調停できるかということはそれこそジャネ対フロイトの問題に分け入っていくこととなりますので、別の機会に譲りたいと思います。結論らしい結論のなきまま、これらの引用をさらなる問いへの示唆として、いったんこのnoteを閉じます…。

「精神分析的精神療法の中では……ある種の問題は……『知らぬが仏』ということもある。だから治療者はその問題を発掘することがはたして本当に必要かそうかをつねに自らに問わなければならない。」(成田善弘 (2014)『新版 精神療法家の仕事』金剛出版、124頁)
「自己洞察は問題解決に至るとは限らない。『自己洞察が深まれば死ぬことになるかも知れないのだよ』とは,先に述べた石川清先生が教えてくれた言葉であった。自己洞察が問題解決につながるという幻想が流布したのは,フロイトにも大きな責任があったと私は思う」(熊倉伸宏 (2003)『面接法』新興医学出版社、86頁)


参考文献

内村祐之『精神医学の基本問題』、医学書院、1972
アンリ・エー『ジャクソンと精神医学』大橋博司ほか訳、みすず書房、1979
笠原嘉『精神科における予診・初診・初期治療』、星和書店、2007
笠原嘉『「全体の科学」のために』、みすず書房、2013
熊倉伸宏『面接法』新興医学出版社、2003
ピエール・ジャネ『心理学的自動症』松本雅彦訳、みすず書房、2013
中井久夫『精神科治療の覚書』日本評論社、1982
成田善弘『新版 精神療法家の仕事』金剛出版、2014
水田善次郎「人格の層学説についての文献的研究(上)」長崎大学教育学部教育科学研究報告, 1995, 48, pp.103-115.

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