渥美半島を旅する
成長しなかった私とて、渥美半島へは何度か一人で行ったことがある。昭和の終わり頃から平成に移り変わる時期と平成時代の末期に、それぞれ違う意味で行った気がする。いまは、それぞれの記憶として繋がっている。ほとんど歩きだったから、現在でも、わりとそこいらの場所なら直ぐに行けるかのように感じられてしまうものだ。突然、大きな広がりのある海を見たときの感情など悲しくなる。天気が良くとも、海辺には、誰一人いなかった気がする。それでも、当時は、よく知っている方ではなかったのかもしれない。
渥美半島は、愛知県の南東にあり、半島の付け根の北側は三河湾、南側は太平洋に面している。半島の太平洋岸は、片浜十三里と言われる。断崖が延々と続き、波穏やかな三河湾とは対照的である。太平洋岸の東にある田原市と豊橋市の境界線から赤羽根港まで海食崖を形成している。海食崖の地層(渥美層群*)からは、第四紀の貝化石が産出する。この細長い半島には、日本最大級の断層系である中央構造線が並行して縦断している。
*下位より二川層、田原層、豊橋層に区分される。
太平洋の黒潮の影響により、気候温暖な渥美半島は、愛知県でもっとも早く春が訪れる場所である。冬でも温暖な土地である。都市近郊でありながら、比較的大きな農業が奨励されている地域かと思われる。「渥美」の由来は、漁労民の安曇族(阿曇氏)との関連が指摘されてきた。彼らは、海神(ワタツミ)を信仰していた一族である。恐らくは、663年の白村江の戦いでの 阿曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)(7C)の戦死が関係している。
半島先端部にある岬の沖合には、伊良湖水道航路が通り、一日百隻以上往来する大型船舶を間近で眺めることもできる。江戸時代には、松尾 芭蕉も訪れた景勝地であった。現在、航路管制の伊勢湾海上交通センターが設置されている。岬から、およそ3.5km先には、三島 由紀夫の小説『潮騒』の舞台とされている、神島(三重県鳥羽市)が幻想のように素晴らしく見える。
「鷹一つ見つけてうれし伊良湖崎」
西行は、東大寺再建のために、勧進の旅をした。白洲 正子の『西行』によれば、海路をとって、伊勢からこの地に渡ってきたとされる。伊良湖(いらご)は、大和(奈良)から決して遠くはなく、「海の路」で繋がる日本における東西文化の交流が盛んな結節点であったと見て間違いないだろう。
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