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人に言えるほどのことが無い私へ。

最初の課題が見たとき、うっと心が刺されるようだった。
自分の広告。
自分を他の人に向けて広報するなんて、苦手すぎる。

今の仕事に就いてから、いやでも自覚するようになったことがひとつある。
それは、肩書=自信=私になっていたこと。
肩書。今までは看護師や養護教諭が「私」だった。技術という目に見える成長があり、病気→回復という目に見える結果があった。非常にわかりやすい。技術は練習すれば上達する、目に見える結果は自分の技術的な関わり方で変えられることもあった。
別におごっていたわけじゃないが、「これができる」と言いやすかったのだ。
そしてそれはある程度の自信だったんだと思う。こんな経験をしてきた、それによって自分は変われた。そういう自信。
どれだけ自分の本質が自信がなくても、肩書があればだいたいの人は信頼してくれていた、と思う。もちろんその信頼に責任は必須だし、それに応えようとあがいてきたつもりだ。

そして今、肩書も経歴も今までの常識もまったく通用しないところに来ている。住む世界が違う、とはこのことだ。

今この場所で不安なくいられているのか、自信をもっていられているのかと問われると、とても言えない。
なんでこんなに言葉がでないのか、なんでこんなに地に足がついていないのか、なんでこんなにできないことばかり目につくのだろう。
もう少し何か突破口が見つからないものか…
せっかくやりたい仕事に就いたのに、嫌いになりたくない。

そんななか、ふとTwitterで流れてきた「企画メシ」のツイート。
「自分の物語をつくる」という言葉に、とても惹かれた。
私、私は今まで肩書の上の物語を作っていたんじゃないか、そう思った。

自分に向き合う、という言葉が嫌いだった。
自分を信じて、とか、自分らしくとか。そんなのどこにいるの?と。
私にとって大事な時、つまり本当に私自身のことを話そうとするとき、決まって涙がでる。家族についての思いを言葉にするとき、「どんな子でもやりたいことが安心してできる場所、子どもの地域の居場所をつくる」夢を言葉にしたとき、私が大事にする生き方を口にするとき。
おそらくこういう時「自分に向き合っている」というのかもしれない。
涙が出るのはなんでなんだろう。向き合えてうれしいのか、かなしいのか。

そして肩書のあらかた無くなった今、何が手元に残っているのか?
何もない。
言うなれば身ぐるみ剝がされて外にさらされている感覚だ。

相手に「伝わる」こと。

自分のこと、大切にしたいこと、やりたい夢。それらは全部足りない言葉で「伝えよう」としていたし、伝わらなければ諦めていたことが多かった。
今はもう、「伝わって」ほしい。
そのために自分と向き合い、「自分」の物語をつくりたい。

7か月後、思わず人に伝わるほどの何かが私の中にみつかりますように。

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