おそらく生まれて初めての読書感想文「タヌキのきょうしつ」

読書感想文、書いてみました~

※なんで書くことになったかはこういう経緯で…
https://note.com/nobaranote/n/n4b917e2eb09f


「タヌキのきょうしつ」を読んで

教育は大切だ、いつも私はそう思っています。

人が人を平気で傷つけるような場面を、テレビだったり、インターネットだったり、さまざまな場所で目にすることが多い最近、
「教育」というものがすべての人に行きわたっていれば、こんなことにはならないのではないか?と考えることも多くあります。

この本の物語は、「教育の大切さ」に気づいた、1匹の「タヌキのお父さん」の行動から始まります。
私がここで上げている「教育」とは、単に「学力を育てる」ということだけではなく、また、物語の中でタヌキのお父さんが言っている「教育」とは、少なくとも本の中での描かれ方では「学力を育てる」ことしか読み取れないのですが、
それでも、タヌキのお父さんは、「よるのきょうしつ」での授業では子どもタヌキたちに「学力」を付けさせているのと同時に、
お父さん自身の「生きざま」を通して、私が最初にのべた(広い意味での)「教育」を総合的に行っていたのだと、私は読み取りました。
これはまさに私が考える理想の「教育」で、
しかもその大切さに気付いたのが(人間ではない)タヌキである、ということにも、とても大きな意味がある、と感じました。

一方、タヌキではなく「人間側」の人物は、いろいろな立場の人々が現れて物語が進みます。
そんなタヌキのお父さんの「よるのきょうしつ」という地道な活動を静かに見守り、大変なときにはサポートしてくれた「きょうとう先生」という存在。
おそらくきょうとう先生と同じ気持ちで、それと少しの好奇心をもって、タヌキたちを見守る「きょうとう先生のおくさん」「きょうとう先生のむすこのヘイタ」、友だちの「カズコ」たち。
東京の新聞で知ってタヌキのきょうしつに大勢で押しかけて、タヌキたちの迷惑も考えずに自分の好奇心を満たすことに躍起になっている人々。
これらの人々の描かれ方をみて分析するだけでも、人間の本質や、あるべき正しい姿とは、と考えを深めることができて勉強になります。
例えば、「これらの中でどのような人物になりたいですか?」などと質問をされることがあれば、
私は「きょうとう先生のように、頑張る人を静かに見守ることができて、必要なときにだけ助けることができる人になりたいです」と答えるでしょう。

さて、物語の前半では、人間の言葉や教育の大切さなんて理解ができないはずのタヌキが学校で学んでいる、という、ファンタジーの世界が繰り広げられてきたわけですが、
この本の始まり1行目に、確かに、
「明治6年1月」と、いつの話か書かれています。
2行目には、「ひろしま市の」と、場所もしっかり書かれています。
戦争が、この物語の中でも、やってくるのです。

5年10年と時が流れ、タヌキのお父さんが亡くなっても、子ども・孫・ひ孫が彼らのすみかの「校庭のクロガネモチの木のほらあな」にずっと住み、きょうしつの先生を受け継いでいることが書かれていますが、 
時代は戦時中となり、人間たちは戦争の準備に慌ただしくなります。
それを見ているタヌキたちも、勉強や体操よりも、兵隊の行進の真似事をするようになり、国中が勉強より戦争という世の中になってしまいます。
ここで、その戦争の結末を知っている、現代の私は、一生懸命なタヌキたちの行進の挿絵を目にして、胸がギュッとなりました。

そして、昭和20年8月6日を迎えました。
ページをめくると突然現れる、一面に塗られた真っ赤な戦火と、大きなきのこ雲。
そして、「いっしゅんにしてくろこげになりました」の文字。
物語の前半で感じた、タヌキ・きょうとう先生とその家族・押しかけた人々、それらの人々も・それ以外の人々も・人以外の生き物も、
みんな一瞬で「ふっとばされて」「なくなってしまったのです。」

この本では、その原爆に遭った人々が、どのようなけがをして、後遺症が残り、という、個々の肉体的な苦しさ、ということは描かれていませんが、それはほかの本で知ることとして。
この本ではとりあえず、良い行いをする者も・良くない行いをする者も、みんな突然いなくなってしまう、そんな結果を生むのが戦争ってものなのだ、ということについて、しっかりと深く感じることができれば良いのかな、と思いました。
そしてそれは、前半の登場人物たちの日々の様子の「語り」があったから、その目的の必要分だけ、心をきちんと動かされました。

感じたこと・言いたいことはまだまだたくさんあるのですが、
一番言いたいことだけ最後に書いて、締めくくります。

この物語には、タヌキが人間に残していく「葉っぱの手紙」が2回出てきます。
最初の手紙は、よるのきょうしつを奪われたタヌキのお父さんに、きょうとう先生がこっそりと彼らのすみかにノートやえんぴつを置いていて、
あとでその差し入れが消えていてその代わりに残されてた「ア・リ・ガ・ト・ウ」と書かれたもの。
次の手紙は物語の終盤・現代、タヌキのお父さんの子孫と思われるタヌキ5匹組が、おでんの屋台のおやじさんに、たぬきのにたまごと交換に渡したお金が姿を変えた、「サンキュウ。」と書かれたもの。
この二つの「葉っぱの手紙」を比べて、私が読み取ったのはこういうこと。
①タヌキのお父さんの、恩を受けた相手に対する感謝の気持ちを忘れずにまっすぐ伝えるという美徳が、次世代のタヌキにも息づいている
②戦争が始まって原爆が落とされ、街が復興して現代になるまで、兵隊の行進の後はタヌキたちの様子が1度も描かれずにいたけれど、物語のステージの外でもきちんと、タヌキたちは学びを続け、英語まで勉強するほどになった
③最初の手紙がタヌキのお父さんが書いた1枚の葉っぱであったのに対し、現代のタヌキが書いた手紙は5匹が5枚の葉っぱに書いていて、最初にタヌキのきょうしつを始めたお父さんのDNAが続いているにとどまらず、広がっていることも感じられる

戦争はたくさんの悲しさと辛さと、言葉では表せない難しいことがたくさんある出来事ではあるけれど、
その中で生まれた希望で、長く続いていくものもあり、それを作るのは意志を持った一人の人間・またはタヌキ、もしくは何かである、ということの意味を考えることにもきちんと意味がある、そのようなことを、「葉っぱの手紙」を通して考えました。


タヌキのきょうしつを読む機会を与えてくれた、課題図書を選出した方々、TSUTAYAの売り場を作ってくれた店員さん、小2のムスメ氏(7)、
皆さんありがとうございました!

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