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連載小説「電話」 第8回(最終回)

 阪急の河原町駅へ降りる階段の前で別れ際、「僕も結婚するかもしれへん」と吉本は唐突に言った。ずいぶん前に看護婦の彼女がいるという話を聞いたような気がして、
 「看護婦さんと?」と言ったら、ちょっとびっくりしたような顔をして「うん」と言った。二人でなぜか笑った。
 大学のキャンパスで、他愛ない悩みにうなだれていた日々の、なんと甘美であったことか。この街で過ごした青春の日々が完全に幕を閉じたことをあのときの短い笑いの中で私たちは二人ともが気がついたのかもしれない。誰とでもなく私は吉本とその瞬間を見送ったのだ。青春の葬送を図らずも終えた後、もう一度二人で笑いあい、吉本は雑踏の中へまぎれて行った。
 東京へ去った男は二時間ドラマなどでときどき端役でテレビに出てきたりしていたが、私はもうすっかり忘れてしまえていた。
五年前に父を見送り、その後急に弱った母の介護をする日々。ネットでの注文が途切れた時にも私は手を休めずせっせとクマのぬいぐるみを作る。母が通うデイサービスのお仲間のおばあさんたちに上げたり、特に気に入った出来のものは手元において、季節ごとに洋服を着せ替えたりしている。
 
 土曜日、約束の時間に吉本に電話する。
「おぉ、なんや。何でも聞いたるぞ」
吉本の声を聞きながら私は目の前の景色が一瞬鮮やかになり、次の瞬間薄茶色のトーンに沈んでいくさまを見たような気がした。吉本に聞きたかったことが、急にどうでも良いようなことに思えたのだ。
「まあ、ええか、もう聞いてもらわんでもええわ。」
「なんやねん。あほか」
 私はいま、ダンナ以外の男に恋をしてるんやけど、その男とセックスしてもええと思う?と聞きたかったのだ。なんだか気持ちが行き詰まって、誰かに答えを出してもらいたかった。
 聞かなくても吉本の答えは分かるような気がした。そんな答えは聞かなくたっていいのだ。
「ほんなら、切るで」吉本があっさりと言った。
「うん」私もさっぱりと答えた。そのまま吉本が電話を切るのを持っていたら、
「あ、そや、死ぬまでにもういっぺんだけしよな」と吉本の元気な声が返ってきた。
「あほちゃうん」
 私のその答えに満足したように吉本は大笑いし、その笑い声を残して電話は切れた。 

おわり                          

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