見出し画像

連載小説 「電話」 第2回

「わ・た・し、分かる?」といきなり聞いてみる。ちょっと笑いを含んでいたかもしれない。
「誰?えぇと、聞き覚えある声やで…」
 なかなかいい声。そうだった、吉本は声自慢の男だった。
「フフ、マリリン・モンロー貰った女」
「ああ、おまえか」受話器の向こうでもホッとしたような懐かしげな気配が立つのがわかった。
「名前忘れたんと違う?」
「覚えてるわ、カーコやろ?カーコやんな。忘れてへんで。おまえのあのときの声も」
「あほっ」二人で笑う。
 吉本とは一度寝たことがある。23歳の時。私の23年間で最悪の時、最悪の記憶。あれから25年近く経っている。もう笑える記憶になっていた。
 15年前に一度再会した。一人っ子の私は結婚後も両親と一緒に京都の郊外にある実家で暮らしていた。大学も京都だったから、生まれて48年間私は一度も家を出ることなくずっと同じ町に住んでいる。    
 吉本は、「近くに来たついで」と言って突然電話をかけてきた。担任をしている生徒が野球でこの近くの高校からスカウトされたとかで、「どんな学校か見にきたんや」と吉本は十年ぶりの電話とも思えない学生時代のままの口調でなれなれしく話し、「お前の家が近くなん思い出して電話してしもたぁ」とのんきに言った。吉本は大阪府下の中学校の教師をしていた。
「すぐに出てこれるか」というので、私はエプロンだけをはずした普段着にサンダルをつっかけて、家から十分ほどの駅前の喫茶店まで出かけた。かつてはおしゃれなプレイボーイを気取っていたのに、短くした髪にスーツと白いスニーカーという不釣り合いな格好の吉本が、ドアを開けたらすぐに目に入って、吉本は吉本で、同時に私に気付いて、瞬間屈託のないうれしそうな表情を見せた。十分の道すがら私のほうにまったく屈託がなかったわけではないけれど、吉本のその表情に私も無邪気な笑顔を返した。
 喫茶店の窓際のテーブルに向かい合って、吉本は十年ぶりのあいさつもそこそこにしゃべりだした。
「子どもが6歳と2歳。共働きやから毎日戦争みたいや。おまえんとこは?」
「私はどうもできひんみたい」
「ふーん、そうなんか…」
 私も吉本も結婚の時期はあまり変わらなかったけれど吉本の方は結婚後すぐに子どもができていた。そのことは、年賀状だったか共通の友人を通してだったかで知っていたけれどその後のことはお互いもう知らせ合うほどの距離ではなくなっていた。一方私は、一人っ子の私に子どもができないことで同居している両親と夫との関係がぎくしゃくしだしたころだった。原因がはっきりと夫にあるという検査結果を私たち夫婦は両親に言い出せないまま、そのことが返って夫の気持ちを私から離れていかせたのかもしれない。それは今になってわかることで、まだあの当時は修復可能なことだと思っていた。子育てに追われる愚痴を聞きながら、目の前にいる吉本に聞かせる話ではないと、ただ私は笑って話を聞いていた。あとは大して話も弾まずも、共通の友人たちの消息を聞き合うだけで、コーヒーを一杯飲んで別れた。あれから15年経っていた。

第3回(https://note.com/nobanashi55/n/n78cf4c6e1df7)へつづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?