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京都時代の中原中也の集合写真考察-8


写真1:中原中也が写っている集合写真:前列右端の生徒が中原中也

古写真の撮影地の考察の続きです。
写真1を見ていて生徒たちが斜面を使って並んだにしては各列が横に整然と並んでいることに違和感を覚えました。ただの斜面に生徒が並ぶ場合、立つ位置がバラバラになり横方向がきれいに一列に並ぶのは困難です。何か階段状のものに座ったり立って並んでいると考えられます。
そこでもう一度写真が撮られた頃と近い時期の地図を見ます。

1927年(昭和2年)当時の京都霊山護国神社(霊山官祭招魂社)付近地図(再掲載)

木戸孝允公神道碑の北西に階段があることがわかります。この階段をひな壇代わりにして並んだのではないかと推定しました。この階段を使えば生徒たちを複数の列に並べることができ、かつ各列が横方向にきれいに並びます。段差を活かして前列の生徒で後列の生徒の顔が隠れずに撮ることができます。

1927年(昭和2年)当時の京都霊山護国神社(霊山官祭招魂社)付近地図

これまでの調査結果を踏まえてカメラと生徒の並んだ階段、当時に灯籠があったと思われる場所を地図に記入しました。
この地図で北は上なので生徒が並んでいる階段と写真1での生徒や木、柵の陰から光線状況と考えると太陽光線は南西方向(地図左下)から差し込んでいます。地図での階段下にある矢印がほぼ太陽光線の差し込む方向とほぼ同じになるようです。午後の比較的早い時間に撮られたと考えられます。

上記の木戸孝允公神道碑の柵と石垣、背後の石垣の積み方や、六角石灯籠の特徴と、地図上に階段があることを踏まえて、集合写真はここで撮られたと考えて間違いないと思います。

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