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デンマーク ラスト一週間の覚え書き

3か月ってこんなにあっという間だったっけ。
今は帰国のちょうど1週間前。来週の今頃には余裕で日本に戻っている。
最近たまりだしてきた言語化したいなにかと、忘れたタイピングを思い出すのと、生存確認をするのと、暇をつぶすために今日のnoteが存在している。

今はちょうど学校のサマーコース(たった一週間)に参加していて久しぶりに日本人と考えを交流したりして、
ああ、日本ってこんな感じだったなあ
だから逃げだしたくなったんだったなあ
みたいな笑
ちょっと大げさだけど思い出すことと最近思うことを発散できればいいと思う。

まず最初に、noteの面白い面白くないって何が影響してるんだろう。
人は好きなんだけどnoteあまりよくわかんないなあとか、
人の価値観を知りたがる性質の私にはものたりなかったりしてしっくりくることが多くはない。
そもそも自分の価値観の言語化のためにnoteを使っている人がどんだけいるかって話だけど一人でがっかりしているときがたまにある。
みんななんのためにnote書いてるんだ?
♡の数多いから読んでみたらたいしたことない現象に名前を付けるとしたら?みんな共感してくれますか?

ということは置いといて
自分の文章には半々の確立で満足している。
半々というのは、インスタの日記のほうは日報と化していて次の日よんで
「あれ、こんな薄かったっけ内容」
ってなることも多いんだけど、noteは意外と満足できていることが多いから。
読んでくれているかもしれない皆さんがどう思うかは知らないけどね。

ということで自分の書く文章にある程度満足していることを前提とするけど私の会話は悲しいことに全く真逆なのさ。これが最近の一番のもやもや

 ・なにがいいたいか伝わらなくて変にぼけたり
 ・伝えたいことを一生懸命伝えても伝わらなかったり
頭の回転ってどうしたら速くなるんですかね。

私の持論として人狼がうまい人が賢くて頭の回転が速い人。
本当に人狼が嫌いで、平民であれといつも願う。
駆け引きを説明されても何をしているかわからない笑

今回の日本人との再会で自分の頭の回転の遅さにまた気が付いて
一人でさみしくなってしまった。気づかせてくれたのが年下だったからなおさら。
でもプライドを捨てるのが得意な私だから。
価値観を分けてもらえるといいな。明日はなしかけよっと。

今私がいる学校がハンディキャップを持った人たちが大勢集まる学校なんだけど、日本人の授業の中でドキュメンタリーをみた。その前後の参加者との会話も含めて
日本人のハンディキャップを持つ人たちは敷かれたレールの上を走りがちでなおかつそのレールがよくない方向に行っている社会問題を知ることができた。
親や周りの大人たちが良かれと思って過保護に育てる。
与えられるのに慣れた子供たちは考えることも与えられることへの感謝も知らずに育っていく。

実際に映像の中でハンディキャップを持つ日本人女性が言っていたのが
「がんばっているねといわれることが嫌だ。
自分のただの日常を美談のように扱ってほしくない」という言葉。

参加者の車いすの男性が言った
「思いやりをもって、守られすぎた障害を持つこどもたちを雑にあつかっているんだ、間違ったことを教える大人も必要だから」
という言葉、
結局人間は人間でしかないのだなという至極当然のことが早回りで一周して戻ってきた。

そして賢い一個下JDが言った
「日本人は察することに馬鹿に力をかけているけど、デンマーク人は困っているなら自分で頼むことができる関係性を持っている。察するという行き過ぎた思いやりでレールを曲げてしまうこともあるから難しい」
(すべてちょっと&かなり脚色してます)

一周はさっき回ったけど、二周目にかかったところでパンクしてなんでこんなに難しく考えないといけないんだろう。なぜ健常者と障がい者でわけて議論しているんだろう、なぜただ生きることがこんなにも難しいのだろうかと考えてしまう。
「日本が。」
という主語がたくさん出てきた日本人授業。
私には大きすぎて魂が抜け始めていたのだけど
日本がだめだっていったところでなにが生まれるんだろうって思わない?
日本なにも変わってないじゃんという私たちだってそんな大それたことはしていないしなんだかなあと思ってしまう。
夢を語るフクロウの気持ちだ笑
そんな私もフクロウ側だからなにもしないんだけどね。


そんな会話をしながらぼーっと考えていたのは最近考えることが多い
人間二極化シリーズ第二弾
人間はふたつに分けることができる。
写真を撮られる人間と、写真を撮る人間だ。

っていう考えを収めておきたい。

結局エグモントという今の環境にいるからこそ
日本はだめだーという話になるのであって、
日本に帰ったらきっと集団の一部に吸収されていくのだろう。
デンマークでマスクしなくていいな、日本戻ったらマスクしなきゃ。
みたいな結局集団から外れることを嫌う人がおおい。
集団に染まることが得意で自分で集団を染めることが苦手な日本人。
それが撮られる側と撮る側のように思えたの。


私がなりたいと思う撮られる側というものについて
もう少し補足しておくと

デンマークにいる3か月ほとんど私が写った写真がない。
自分で自分の写真を撮るのが好きじゃないのと、決して誰かに撮られるような人間ではないから。
写真を撮られる人間というのは、いつもみんなのムードメーカーで輝いていてカメラが勝手に向いていくものだと感じている。
その中心にいる感じが集団を染めるに近いのかなあという感覚。
と同時に「写真とろーぜ」「写真撮ってくれない?」という一言を言える人でもある印象。
もう一声!人の目を気にして生きるんじゃなくて人に気にさせるような人
そんな人になりたい。
それが笑顔を作る人だと思うから。

もちろん異論、議論待ってます。

あと何を考えたところで当事者の熱い思いがなければ変わらないのだというのもすごく思った。
「日本は」という主語を使うことになってしまうけれど
日本は当事者を権限を奪ってこれがいいでしょう?のやさしさをおしつけるのが得意な国らしい。
そして当事者は誰かを待っている。
私が当事者として魂を込めれるなにかに今のところで会えていないのも事実。
でもやっぱり社会福祉というか障害を持つ人とのかかわりは結構関心高いかも。

そういえばスタートアップで必要な顧客は
その商品をなんとしてでも欲しくてたまらない人であり、
その顧客が存在することを証明できなければ始まらない。
一緒なんだね。

当事者になれないならせめてたくさんの当事者に近い人になりたい。
日本人授業で他己紹介をしたけど質問項目の中に
1 最近心に残った出来事
2 失敗したと思ったこと
3 勇気をだした出来事
4 最近ないた出来事とそのわけ
5 どんな人になりたいか
6 明日の目標
があったんだけど、
どんな人になりたいか、
笑顔を作れる人になりたい。
という言葉がすぐに出てきた自分に感動していた。前述しちゃったけど。
またタイムリーだからってのもあるけど大事な思い出のほとんどがデンマークでの思い出だったことを考えると3か月よかったなって思う。

そういえば一番笑顔をつくる仕事って何だろうって考えてた時期あったなあ
結局どこでも笑顔につながっていて、一番ってものは自分でつくりだせるんだという結論で終わったことを今思い出した。
来週の今頃は日本だけど来年の今頃はどうやって生きていくか一応きまっているんだもんなあ。きっとあっという間だね。

さて、次の話題。
逆境を乗り越えた人と成功し続けた人って優劣つけることはできるのだろうか。
だめだ、優劣をつける時点でオワコンしてる。
ちがう。
逆境を乗り越えて夢をかなえたいか、順調に叶えたいか
私は前者をとると思う。というか、順調にかなってしまうものは夢というにふさわしくないと思ってしまう
たぶんそういうわけで自分のこれまでのイージー人生を否定しがちな私なんだと思う。

そしてマイノリティってちょうどいい逆境のように私は見えてしまう。
自分はマイノリティだからっていう壁を自分で作ってとりあえず乗り越えて
あたかも克服しましたみたいなさ。
その人を責めたいんじゃなくてマイノリティという言葉を恨みたい。
少数派ってかっこよくない?それがハンディキャップに興味をもつ理由の一つでもあるのかもしれない。
この理論が正しいのかさえ知らない。
なんせ私はイージーモードだからね。

みんなに理解されない悲しい思いをたくさんしてきた。
仲間はずれにされてきた
そんな原体験がそう思わせるんだろうけど、
私にはその経験が思い当たらないんだよなあ。
そう思う頃には弱らない心があったから。たぶん

人間はしょせん人間なんだもの。
もっと気楽にいきてこうや。
気楽に生きてこれなかった人の話ももっと聞いていこうや

最後に
ちょっと前の他己紹介のインタビュー内容で失敗した経験は?という質問に対して失敗と思ったことはないといった人が2人いた。(つまり33%)
私に言わせれば、失敗がないことはなくってただ
その失敗を後悔しないことはできると思う。
失敗と認める経験も大事だから。
そこははき違えたらいけないなって思った。





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