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チャタレー事件について考える


第1章 はじめに

1.1 チャタレー事件最高裁判決の概要

本稿で考察の対象とするのは、いわゆる「チャタレー事件」と呼ばれる猥褻文書販売事件に関する1957年3月13日の最高裁大法廷判決(昭和28年(あ)第1713号、刑集11巻3号997頁)である。同判決は、D.H.ロレンスの小説「チャタレー夫人の恋人」の日本語訳の出版・販売に関し、刑法175条の猥褻文書販売罪の成否が争われた事案について、原審の有罪判決を支持し、上告を棄却したものである。

本判決の多数意見は、猥褻性の判断基準について、徒らに性欲を興奮・刺激させ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものが、刑法175条の「猥褻」に該当するとした。そして、本件訳書の性的場面の描写は、詳細、露骨かつ赤裸々で、「性交の非公然性」の原則に反し、社会通念上認容される限度を超えているとして、猥褻性を肯定した。

芸術性と猥褻性の関係について、多数意見は、これらが別次元の問題であり、芸術性が認められても猥褻性は否定されないとの立場をとった。また、表現の自由との関係では、同自由が公共の福祉による制約を免れないこと、性的秩序と最小限の性道徳の維持が公共の福祉の内容をなすことを理由に、猥褻表現の規制は憲法21条に違反しないと判示した。

他方、真野裁判官の補足意見は、裁判官の役割は法の解釈適用にあり、道徳の守護者として猥褻性を判断すべきではないと論じた。小林裁判官の補足意見は、無罪とされた被告人について事実取調をせずに控訴審で有罪とした原審の手続は違法であるとの見解を示した。

1.2 猥褻性をめぐる社会的・法的問題の所在

チャタレー事件最高裁判決は、わが国の猥褻概念と猥褻表現規制の基本的枠組みを示した先例的意義を有する。もっとも、そこで示された法理には検討を要する様々な論点が含まれている。

第一に、同判決の依拠する猥褻概念は不明確性が高いとの批判がある。「徒らに性欲を興奮・刺激させる」「正常な性的羞恥心を害する」「善良な性的道義観念に反する」といった基準は抽象的であり、恣意的な解釈・運用に繋がりかねない。明確性の原則や表現の自由の観点から問題視する見解が有力に主張されてきた。

第二に、芸術性による猥褻性の相殺ないし解消を認めなかった点も、批判の的となっている。芸術表現の自律性を重視する立場からは、表現の持つ社会的価値を考慮することなく、もっぱら性的刺激に着目して猥褻性を判断することは適切でないとされる。

第三に、公共の福祉による表現規制の許容性も論争的な問題である。リベラルな立場からは、自己統治の理念を実現する民主的過程にとって表現の自由が不可欠の前提であることが強調される。性表現の規制は必要最小限にとどめるべきとの主張につながる。

第四に、社会通念を規準とする多数意見の立場に対しては、少数者の表現の自由を多数者の価値観によって抑圧する危険性が指摘される。多元的な現代社会において、単一の社会通念なるものを措定できるかが問われている。

以上のように、チャタレー事件判決をめぐっては、法解釈論・憲法論上の重要論点が様々に対立している。それら相互の緊張関係は、表現の自由の限界画定をめぐる古典的なジレンマでもある。現代社会における猥褻概念の意義を再考する上で、同判決の示した法理を多角的に分析する必要性は高い。

猥褻性の問題は、法学のみならず哲学・倫理学、社会学、ジェンダー論、文学・芸術論など、多様な学問領域と交錯する学際的な課題でもある。各分野の知見を踏まえ、猥褻をめぐる諸問題の本質を解明することが求められる。本稿では、チャタレー事件最高裁判決を素材としつつ、猥褻性の諸問題について学際的な考察を試みることとしたい。

第2章 猥褻概念の法的考察

2.1 日本における猥褻概念の変遷と現状

日本における猥褻概念は、明治期の旧刑法の制定以来、連続性と変容を孕みつつ展開してきた。1907年(明治40年)の旧刑法175条は、「猥褻ノ文書、図画其他ノ物ヲ公然陳列シ又ハ販売シタル者」を処罰対象としていた。同条にいう「猥褻」の意義については、その後の判例の集積により一定の外延が形作られていく。

戦前の判例の到達点は、1933年の名古屋高裁判決(昭和8年12月7日刑集10巻661頁)に示されている。そこでは、猥褻とは「人をして殊更に淫邪の念を生ぜしむるに足る文書図画其の他一切の物品を謂ふ」と定義され、性的刺激の程度に着目する立場が採られていた。もっとも、同判決は、純然たる猥褻物のほかに、「純然たる猥褻物に非ざるも尚且相当に淫邪の感情を誘起し善良なる風俗を害する虞あるもの」の存在を説き、猥褻の程度には幅があるとの理解を示していた。

戦後に制定された現行刑法の175条は、旧刑法と同様の規定振りを維持している。法文上明示されていない「猥褻」概念の内実は、再び判例理論の展開に委ねられることになった。この間、猥褻の判断基準をめぐって下級審に見解の相違が生じ、学説上も活発な議論が展開された。

チャタレー事件最高裁判決(1957年)は、前述のように、猥褻の意義につき、性欲の興奮・刺激、性的羞恥心の侵害、性道徳違反を基準とする定式を示した。また、芸術性と猥褻性の関係について、両者が併存しうることを説いた点でも、重要な判断を下したものとされる。同判決の定立した枠組みは、その後の実務の指針となり、現在に至るまで基本的に維持されている。

もっとも、近年においては、最高裁判決の射程には収まりきらない新たな事案も登場している。インターネットの普及に伴い、わいせつ物の流通形態は複雑化・不可視化しており、伝統的な規制の有効性が問い直されている。また、マンガやアニメ、ゲームといったサブカルチャーにおける過激な性表現をめぐり、表現者と規制当局の対立が先鋭化する場面も見られる。

他方、学説では、リベラルな立場から猥褻概念そのものの当否を問う見解や、芸術表現の自律性を重視し猥褻規制に慎重な姿勢を求める見解など、多様なアプローチが示されている。司法の場でも、青少年保護の文脈における最高裁判断には、猥褻概念についての一定の再検討の兆しを指摘できるとの評価もある。

現在の日本社会においては、性をめぐる道徳観念・倫理観の変容や情報環境の急激な進展を踏まえつつ、表現の自由との調和点を模索する作業が改めて求められている。その意味で、猥褻概念を相対化し、その適用範囲を再考する契機としてのチャタレー事件判決の現代的意義は小さくない。歴史的文脈を踏まえた法的考察を深化させることが、猥褻性の諸問題の解明に不可欠の前提作業となろう。

2.2 欧米諸国における猥褻概念の展開

日本の猥褻規制を相対化するためには、欧米諸国の動向を比較法的に参照することが有益である。もっとも、そこで見出されるのは、一様ならざる多様な展開である。各国の法制度・社会事情を背景とし、ときに激しく揺れ動きつつ、猥褻概念は進化を遂げてきた。

英米法系の代表例として、まずアメリカ合衆国の判例理論を概観しよう。20世紀前半においては、1868年のイギリスの判例(Regina v. Hicklin事件)の定立した「最も傷つきやすい人」基準が通用していた。すなわち、問題の表現物が、最も影響を受けやすい読者層の一部に悪影響を及ぼす傾向があれば、猥褻とされたのである。

しかし、1957年の連邦最高裁判決(Roth v. United States, 354 U.S. 476)は、「平均人(average person)」を基準とする立場に転換を遂げた。同判決は、問題の表現物が「全体として、平均人の猥褻物についての現代の社会通念に照らし、専ら性的興味に訴える」場合に、猥褻とされると判示したのである。

さらに1960年代以降は、社会の寛容度の変化を受け、連邦最高裁の判例理論に修正が施されていく。1966年のMemoirs判決(A Book Named "John Cleland's Memoirs of a Woman of Pleasure" v. Attorney General of Massachusetts, 383 U.S. 413)は、「明白かつ疑いのない証拠」がない限り、表現物に「鑑賞できる(redeeming)社会的価値」がある場合、猥褻と判断されないとした。これにより、芸術性・文学性などの社会的価値が考慮要素として導入された。

1973年のMiller判決(Miller v. California, 413 U.S. 15)は、現在の判断枠組みを確立した。すなわち、①平均人が現代の社会の価値基準に照らして、作品全体として性的興味に訴えるものと判断するか、②法の定める猥褻の定義に、明確に該当する露骨な性的行為を描写しているか、③作品全体として真摯な文学的、芸術的、政治的または科学的価値を欠いているか、という3つの要件が示された。

他方、イギリスでは、1959年のObscene Publications Act(わいせつ出版物法)により、Hicklin基準からの脱却が図られた。公共の利益に関する抗弁が導入され、文学的・芸術的・科学的その他の価値の存在が斟酌されることになったのである。さらに、1964年の改正では、作品の一部のみを取り出して判断することは許されず、作品全体としての性質に基づいて判断すべきことが明記された。

次に、大陸法系の動向を見ると、ドイツでは1974年の刑法改正により、従来の「猥褻な(unzüchtig)」出版物概念が「ポルノグラフィ的な(pornographisch)」出版物概念に変更された。これは、規制対象を「ポルノグラフィ」という言葉で表現された核心的な領域に限定する趣旨と理解されている。芸術の自由(基本法5条3項)との調整規定も置かれており、芸術的・文学的な表現物は原則としてポルノ規制の対象外とされる。

フランスでは、1994年の刑法典の改正により、わいせつ物頒布罪の構成要件から「善良な風俗(bonnes moeurs)」違反要件が削除された。同要件の不明確性・恣意性が批判されてきた結果であり、表現の自由に対する配慮の現れとも評価される。現行法の下では、未成年者に対するわいせつ物の販売・頒布のみが処罰対象となっている。

以上のように、欧米諸国の展開は、一定の収斂の傾向を見せつつも、各国の法体系や社会状況を反映した多様性を示している。わが国の議論に直接の示唆を得るためには、さらに個別の事例研究を進める必要があろう。ただし、芸術表現への配慮や、表現内容の社会的影響の考慮など、日本法の解釈にも通底する問題関心を看取することは可能である。チャタレー事件最高裁判決を相対化する契機としても、これら比較法的知見の意義は小さくない。

2.3 国際人権法における性表現規制の動向

性表現の規制は、各国の国内法秩序の問題であると同時に、国際人権法の課題でもある。表現の自由は、世界人権宣言(19条)やIICPR(市民的及び政治的権利に関する国際規約、19条)など、国際人権法の基本文書で保障されている。他方で、モラルの保護は、表現の自由の正当な制約事由の1つとも位置づけられており(IICPR19条3項など)、各国の猥褻概念の多様性が許容されている。

もっとも、国連の人権理事会が任命する「意見及び表現の自由に関する特別報告者」は、モラルに基づく規制の濫用への懸念を繰り返し表明してきた。例えば、2010年の報告書(A/HRC/14/23)は、国家がモラルを理由とする制約を恣意的に利用している実態を指摘し、厳格な要件の下でのみ正当化されるべきであると勧告している。

また、ヨーロッパ人権条約(10条)の解釈をめぐっては、ヨーロッパ人権裁判所の判例の蓄積がある。同裁判所は、加盟国の猥褻認定の合理性を事案毎に審査してきた。その姿勢は、芸術性や社会的価値を考慮要素としつつ、マージン・オブ・アプリシエーション(評価の余地)理論により加盟国の裁量を尊重するものと特徴づけられる。

1988年のMüller判決(Müller and Others v. Switzerland, no. 10737/84)では、獣姦をモチーフとした絵画の展示を猥褻とした国内判断が是認された一方、1996年のWingrove判決(Wingrove v. United Kingdom, no. 17419/90)では、聖テレサのエクスタシーを神学的文脈から逸脱した形で表現したビデオ作品の頒布を規制した国内判断が支持された。いずれの事案でも、芸術的表現の自由の主張は斥けられている。

他方、2007年のVerbindung Bildender Künstler判決(Vereinigung Bildender Künstler v. Austria, no. 68354/01)では、公人の裸体を描いた絵画の展示を制限した国内判断が条約違反とされた。公人に対する批判表現としての性格が重視され、制約の正当性が否定されたのである。

これらの判例の展開は、ヨーロッパ人権裁判所が表現の自由と規制の必要性の均衡点を模索する過程を示している。わが国の法解釈にも一定の示唆を提供するものといえよう。もっとも、同裁判所の姿勢は、普遍的な人権保障を志向しつつも、加盟国の多様性を許容する地域的人権保障の限界を体現してもいる。日本の裁判実務が直面する課題とは、必ずしも同一の文脈に置かれていない点には留意を要する。

より広い視野からは、国連を中心とする国際社会の動向にも目配りが必要である。女子差別撤廃条約の実施機関である女子差別撤廃委員会は、一般勧告19号(1992年)において、ポルノグラフィが女性に対する差別を助長すると指摘している。ここには、ジェンダーの視点から性表現の規制を正当化する発想が見て取れる。

他方、表現の自由の促進を重視する立場からは、性的マイノリティの権利や芸術表現の自由への配慮が求められてもいる。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の報告書(2019年)は、LGBTの人々に関する情報の流通を阻害しかねない猥褻規制の運用を問題視している。

性表現の規制をめぐる国際人権法の議論状況は、問題の複雑性を浮き彫りにしている。多様な人権価値の調整という難題は、グローバルな文脈でこそ、先鋭な形で立ち現れるのである。わが国の法解釈も、これら国際的潮流を視野に収めつつ、思索を深化させる必要に迫られているといえよう。

2.4 日本国憲法の視点からの検討

日本国憲法は、21条で表現の自由を保障している。同項は検閲の禁止と事前抑制の原則的禁止を明記しており、表現の自由の手厚い保護を意図したものと理解される

学説では、表現の自由の優越的地位を説く見解が有力に主張されてきた。アメリカの判例理論に示唆を得つつ、民主政の過程にとって不可欠の権利という位置づけがなされるのである。これに対し、わが国の最高裁は、公共の福祉による制約の存在を前提としつつ、個別の事案における具体的利益衡量の手法を採用してきた。

チャタレー事件最高裁判決も、基本的にこの立場に立つものと評価できる。公共の福祉の内実として性秩序の維持が措定され、それとの調整の上で芸術表現の自由の主張は斥けられている。その論理は、わが国の憲法学説の主流とは距離を置くものといわざるを得ない。

思うに、日本国憲法の下での猥褻表現規制の正当化根拠としては、次のような考え方が採りうるであろう。

第一に、猥褻表現は、公共の福祉の内実をなすとされる諸価値、とりわけ個人の尊厳や平等原則と衝突する。例えば、女性の性的客体化を助長するようなポルノグラフィは、男女平等の理念に反する。
第二に、青少年の健全育成は、未来の国民主権の担い手の育成という意味で、民主政の基盤をなす。過激な性表現への無秩序な接触は、青少年の人格発達を阻害しかねない。適切な成長環境の整備は、公共の福祉に適うものと解される。
第三に、公然わいせつ行為を規制する法益は、国民の性的自由ないし性的人格権の保護に求められる。自己の意思に反して性的刺激に晒されないという消極的自由は、公共の福祉の一内容をなすと考えられるのである。

もっとも、以上の観点からの規制は、常に必要最小限度のものでなければならない。あまりに広範で不明確な規制は、適法行為の萎縮効果(チリング・エフェクト)を招き、表現の自由の意義を損なう。この観点から、規制の対象を性的に過激な表現の核心部分に限定する工夫が求められよう。

具体的な解釈の指針としては、以下の諸点に留意すべきと思われる。

第一に、芸術表現については、一般の猥褻物とは異なる取扱いを検討すべきである。芸術の持つ社会的価値を考慮要素として、より慎重な判断枠組みが要請される。
第二に、規制対象を青少年に接触可能性の高い媒体・流通形態に限定することも一案である。過度に広範な規制は、必要性の観点から疑義が生じよう。
第三に、規制目的に照らして、規制手段の相当性を吟味することが重要である。画一的な刑事規制には限界があり、民事的手法や、教育・啓発などの非権力的手法の活用も検討に値する。国家の介入は謙抑的であるべきとの意識が、常に求められるのである。

以上のように、日本国憲法の枠内で、性表現規制の正当化根拠と限界を探ることは可能であろう。だが、そこで得られる解は、あくまで文脈依存的で相対的なものとならざるを得ない。表現の自由の意義を深く踏まえた慎重な利益衡量が、個々の事案の解決に向けて不断に求められていくのである。

第3章 猥褻性判断の社会学的考察

3.1 性規範の社会的形成と変容

性をめぐる規範意識や価値観は、固定的・普遍的なものではない。それは、特定の社会の文脈に根ざした集合的な営為の所産である。何が「猥褻」と見なされるかは、その時代の社会状況を反映した形で形成・維持されてきた。したがって、猥褻概念の理解には、性規範の生成と変容のメカニズムに関する社会学的考察が不可欠となる。

近代以前の日本社会においては、宗教的・共同体的規範が性秩序の基盤をなしていた。伝統的な性風俗には土着的信仰が反映され、春画に代表される視覚的表象もまた、独特の美意識の下に展開されてきた。明治期以降の近代化の過程で、西欧から輸入された道徳観の影響を受けつつ、国家主導の性規範の再編が進む。貞操観念の称揚や公娼制度の導入など、性をめぐる言説空間は複雑な変容を遂げたのである。

戦後の高度経済成長を経て、日本社会の性規範は新たな局面を迎える。1960年代から1970年代にかけての急速な都市化と核家族化は、家父長制的性秩序を動揺させた。避妊技術の普及により性と生殖が切り離される中、性的欲望の解放を標榜する動きが活発化する。他方で、ポルノグラフィの流通拡大や風俗産業の発達は、商業的性の領域を拡大させた。

こうした状況の下で、「性の自由」をめぐる価値観の対立が先鋭化する。リベラルな立場からは、性規範の脱構築と多様化が志向される一方、保守的立場からは、伝統的価値観の擁護と国家的規制の強化が求められた。だが、「性革命」の時代とも形容される変化の潮流は、容易に反転させ得ないものであった。その中で、法は、既存の性秩序を追認するのではなく、新たな社会規範の形成に向けた調整装置としての役割を期待されることになる。

もっとも、性をめぐる規範や価値観は、その後も流動化の度合いを増している。1990年代以降のグローバル化と情報化は、価値観の多元化に拍車をかけた。ジェンダー秩序の問い直しや、性的マイノリティの権利をめぐる議論が活性化する中、単線的な「近代化」の物語では捉えきれない錯綜した状況が生じている。

他方で、少子高齢化の進展を背景に、家族や性をめぐる国家の管理的関心が新たな展開を見せている。晩婚化・未婚化への対策として、伝統的家族観の見直しを図る動きすら見られるのである。「自由」と「規制」は、ときに奇妙な同居を演じる。かつて「私事」とされた領域にも、「公共性」なるものの影が忍び寄りつつある。

性表現の規制を考える上でも、こうした性規範の揺らぎは看過できない。固定的な善悪二元論では対応困難な事態に直面している以上、社会の変化に即応した柔軟な判断枠組みが求められよう。そこでは、抽象的な道徳律の適用ではなく、表現が置かれた具体的文脈への目配りが欠かせない。性秩序の多元化の只中で、法解釈の指針たりうるのは、これまで示唆してきた諸学の知見に立脚した慎重な考量に他ならないのである。

3.2 ジェンダー秩序と猥褻表現

性をめぐる規範や価値観は、男女の社会的権力関係と密接に連関している。「猥褻」をめぐる言説もまた、ジェンダー秩序を反映した形で編成されてきた。フェミニズムの立場からは、ポルノグラフィに典型的に見られる女性の性的対象化が、女性に対する差別と抑圧の温床として批判の的となる。

この種の批判は、1970年代以降の第二波フェミニズムの隆盛と共に先鋭化していく。キャサリン・マッキノンらの主唱する論法は、ポルノグラフィを女性に対する暴力の一形態と捉え、その規制を正当化する。女性の性的従属を当然視し再生産する表現は、そのものとして有害だというのである。

他方で、より性肯定的なフェミニズムの系譜もまた存在感を増している。女性の性的主体性を積極的に認め、多様な欲望の表現を擁護する立場である。ポルノグラフィの一律規制は、かえって女性の性を抑圧するものと捉えられる。過激な性表現の中にも、ジェンダー秩序を攪乱する契機を見出そうとするのである。

もっとも、両陣営の立場は、必ずしも和解不可能なものではあるまい。ポルノグラフィ規制の是非をめぐる議論は、むしろ男女の性現実をめぐる認識の違いに発している面が大きい。規制の対象を、女性に対する暴力や差別を直接煽動する類型の表現に限定する建設的な提案も示されている。社会的弱者の尊厳を毀損する表現と、自発的な性的表現とを区別する視点は、重要な示唆を与えるものと思われる。

ジェンダーの視点は、「公然わいせつ」罪をめぐる議論にも新たな光を投げかける。従来、同罪で処罰されるのは、専ら男性による露出行為であった。法が暗黙裡に前提とする「痴漢」像がそこに垣間見える。しかし、現代社会における痴漢の実相は、もはやこうした単純な図式では捉えきれまい。被害者の中には男性も一定数存在するほか、場合によっては女性が加害者となることもありうる。

加えて、同性愛者など性的マイノリティへの配慮も、看過できない論点となりつつある。異性愛中心主義に根ざした法制度の欠陥が、しばしば露呈されるのである。「猥褻」概念の解釈・運用にも、こうした認識の変化が反映されるべきことは言うまでもない。

ジェンダー秩序をめぐる議論状況は、社会の性認識が複雑化の一途を辿っている事実を示唆している。単純な二分法を超えて、性の多様性に即した公正な秩序形成が模索されねばならない。その意味で、ジェンダーの視点は、既存の法解釈に再考を迫る契機としての意義を有しているのである。

3.3 ポルノグラフィと性暴力の関係性

「猥褻」表現の規制を正当化する根拠の1つとして、しばしば性暴力との関連性が指摘される。とりわけ、過激な内容のポルノグラフィが現実の性犯罪を誘発するとの懸念は、根強く存在してきた。法的規制の主唱者も、こうした「有害論」の系譜に与することが少なくない。

もっとも、ポルノグラフィの「有害性」を実証的に論証することは容易でない。ポルノグラフィの視聴と性犯罪の因果関係を直接示すデータは乏しく、相関関係の有無すら定かではないのが実情である。むしろ、性犯罪の発生率とポルノグラフィの供給量との間に負の相関を示唆する調査例すら存在する。

他方で、ポルノグラフィが性意識・行動に対し無視し得ない影響を及ぼしうることは、経験的にも広く認められるところである。極端に歪んだ性認識を助長したり、過剰な性的欲求を喚起したりする作用は、けっして看過できない。青少年への悪影響が懸念される所以である。

しかしながら、個人の認識・行動への影響力と、実際の犯罪の誘発とは、次元の異なる問題であろう。犯罪の原因を特定の表現物に帰することには、慎重であるべきである。性暴力の根源が、加害者の人格的要因や社会的諸条件に求められることは言うまでもない。「有害論」の観点からは、ポルノグラフィ規制の必要性を説得的に基礎づけることは難しいと言わざるを得ない。

また、ポルノグラフィの影響は、受容者側の主体的な意味付与抜きには語り得ない。同じ表現物であっても、個人の解釈枠組み次第で、受容の仕方は多様でありうる。「有害」とされる表現ですら、文脈次第では批判的に読み替えられる可能性は十分にあるのである。

加えて、情報化社会の進展により、ポルノグラフィをめぐる状況は大きく変容しつつある。インターネット上の膨大な情報を個別に規制することは、もはや非現実的と言わざるを得ない。青少年を取り巻くメディア環境の変化は、従来型の規制発想では対応し得ない事態を生み出している。

新しい局面においては、ポルノグラフィの影響力を相対化し、多様な情報に接しつつ自律的に判断する個人の主体性に期待する必要があろう。「有害論」に依拠した一律の規制は、かえってこうした主体性の形成を阻害しかねないのである。性表現に対峙する個人の「メディア・リテラシー」を高める取り組みにこそ、性暴力の防止に資する実効的方策を見出すことができるのではないか。

3.4 インターネット時代の情報環境と青少年保護

情報化の急速な進展は、青少年を取り巻くメディア環境を一変させつつある。スマートフォンなどの普及により、いつでもどこでもインターネットに接続できる状況が生まれている。その結果、青少年が猥褻表現に接触する機会は飛躍的に増大している。「有害」情報から青少年を保護することの困難は、もはや自明の事実と化しつつあるのである。

従来型の規制は、有体物の流通を前提とするものであった。アダルトビデオの販売規制や雑誌の陳列場所の制限など、現実空間における情報遮断は一定の実効性を持ちえた。しかし、サイバー空間においては、こうした発想は容易に通用しない。膨大な情報の氾濫は、規制当局の想定を超える事態を生み出しているのである。

加えて、インターネット上の情報流通は、国境を越えたグローバルな広がりを見せている。各国の法制度の違いが、規制の実効性を減殺する要因となっている。プロバイダの所在地如何によっては、わが国の法規範で対処することすら困難な場合が生じるのである。「猥褻」概念をめぐる多様な価値観が交錯する中、普遍的な規制の物差しを定立することは至難の業と言わざるを得ない。

他方で、フィルタリングに代表される技術的手法には、一定の実効性が認められる。青少年のインターネット接続に際し、保護者が事前に設定を施すことで、有害サイトへのアクセスを物理的に遮断するのである。もっとも、こうした取り組みが青少年の自発的な協力を得られるかは必ずしも定かでない。過度に硬直的な運用は、反発を招く恐れすらあるのである。

より本質的な課題は、青少年のメディア・リテラシーの向上にあると思われる。情報に批判的に接し、その意味を自律的に見定める能力の涵養である。多様な価値観に触れつつ、自らの人生観・世界観を形成する主体性を育むことが求められる。「有害」情報もまた、そうした成長の糧たりうるのである。過度の保護は、時に青少年の健全育成を阻害しかねない。

もとより、青少年の発達段階に応じた配慮が不可欠なことは言うまでもない。幼い子供たちを「有害」情報に無防備に晒すことは避けねばならない。だが、過保護に陥ることなく、徐々に自律性を育んでいく仕組みが必要とされるのである。保護と自律のバランスをいかに取るかは、制度設計上の難題と言えよう。

青少年を取り巻く情報環境の変容は、従来の規制の発想を根底から問い直すものとなっている。もはや、「猥褻」情報の隔離によって事足れりとするわけにはいかない。むしろ、情報化社会を生き抜く青少年の人格的主体性をいかに涵養するかが、喫緊の課題なのである。その意味で、青少年保護の文脈もまた、抑圧的規制とは異なる保護の在り方を模索する契機に直面していると言えよう。

第4章 猥褻性の哲学的・倫理学的考察

4.1 自由主義の原理と規制のパターナリズム

性表現の規制をめぐる問題は、自由の価値と国家の役割をめぐる政治哲学の根本問題でもある。自由主義の立場からは、個人の選択の自由は最大限尊重されるべきものとされる。「猥褻」とされる表現物に接するかどうかは、各人の自己決定に委ねられるべき事柄だというのである。

こうした考え方の背景には、国家は個人の活動に対し中立的であるべきとする原理的要請がある。善き生き方をめぐる多様な価値観が併存する以上、特定の道徳律を強制することは正当化できないというのである。J・S・ミルに代表される古典的自由主義の系譜は、この点を強調してきた。

しかし他方で、現代社会における国家の役割は、自ずと拡大せざるを得ない面もある。自由放任の結果としての弊害を除去し、公正な社会秩序を実現する上で、一定の国家介入の必要性は否定できまい。問題は、自由の制約原理をいかに定立するかである。

この点で示唆に富むのが、ミルの「危害原理」である。それによれば、個人の自由に対する強制が正当化されるのは、他者への危害を防止する必要がある場合に限られる。自己破壊的な活動ですら、本人の自発的意思に基づくものである限り、国家が介入する理由は存在しないというのである。

だが、他者危害の範囲をどう画定するかは容易ではない。例えば、「猥褻」表現が青少年の健全育成を阻害するとの理由で規制するのは、危害原理の適用と言えるだろうか。「危害」概念の外延次第では、国家のパターナリスティックな介入を広く許容する虞すらあるのである。

加えて、ミルの議論を現代社会にそのまま適用することにも疑問の余地がある。高度に組織化された今日の社会にあっては、個人は複雑な社会関係の中に置かれている。純然たる「自己決定」の観念は、もはや幻想に近いと言わざるを得まい。個人の選択もまた、無意識の心理や社会的影響力から自由ではありえないのである。

とすれば、国家の役割も、単に消極的な自由の確保にとどまるものではない。社会的弱者の保護や、実質的な選択の自由の保障もまた、不可欠の課題となる。その意味で、リベラルな国家は、時に積極的な介入を通じて、自由の実現を図る必要があるのである。もちろん、その場合でも介入は必要最小限にとどめるべきことは言うまでもない。パターナリズムの過剰は、自由主義の理念に反する結果を招きかねない。

性表現の規制も、こうした自由をめぐるジレンマを反映したものと言えよう。表現の自由を最大限尊重する一方、青少年の保護など社会的要請にも適切に応える必要がある。その均衡点を探ることは、安易な解決を許さぬ難題なのである。「猥褻」概念の限定的解釈は、自由の価値を堅持する上で不可欠の要件となろう。

4.2 危害原理と迷惑原理

自由主義の規制原理を論じる際に、しばしば参照されるのが、J・フェインバーグの議論である。フェインバーグは、ミルの危害原理をより精緻化し、「危害原理」と「迷惑原理(offence principle) 」とを区別する。危害原理が、他者の権利を侵害する危害の防止を理由とする規制を正当化するのに対し、迷惑原理は、他者に不快感を与える表現の規制をも限定的に許容するものとされる。

性表現の規制は、この二原理のいずれによって正当化されるだろうか。

第一に、危害原理の観点からは、ポルノグラフィが女性の名誉感情を害したり、性犯罪を誘発したりする危険性が問題となる。また、青少年に対する悪影響も、一種の「危害」と捉える余地がある。もっとも、これらの点は実証的な論証を要する問題でもある。因果関係の有無や、影響の程度を客観的に示す作業が不可欠となろう。危害原理は、あくまで具体的な「危害」の存在を要件とするのであって、漠然とした有害性の懸念では足りないのである。

第二に、迷惑原理については、「猥褻」表現が一般人の性的羞恥心を害するとの理由から、その規制を基礎づけることができるかが問題となる。公然わいせつ罪に関する議論は、主としてこの文脈で展開されてきた面がある。

だが、ここでも「不快感」の程度如何が決定的に重要となろう。迷惑原理は、深刻かつ直接的な不快感のみを規制の対象としているのであって、単なる嫌悪感では正当化の根拠とはなりえない。「猥褻」表現に接した一般人の反応も、多様でありうることを想起すべきである。

加えて、表現の持つ社会的価値への評価も、考量要素となる。芸術的・思想的表現については、「不快感」を上回る意義が認められる場合もあるだろう。規制による萎縮効果に対する配慮は、けっして無視できない論点なのである。

フェインバーグの議論は、自由主義的規制観を支える有力な論拠を提供している。だが同時に、その射程の限界にも留意が必要である。現代社会が抱える複雑な利害関係の調整は、もはや一般的原理では割り切れない面を有しているのである。危害原理・迷惑原理の内実もまた、社会の変化に即して柔軟に捉え直す必要があるのではないか。

4.3 リベラリズムの系譜における猥褻論

リベラリズムの思想的系譜において、表現の自由をめぐる議論は重要な位置を占めてきた。わけても、「猥褻」概念をいかに理解すべきかは、論争的な主題の1つであった。たとえばH・L・A・ハートは、「法と道徳の区別」を説くパイオニア的論稿の中で、イギリスの猥褻出版物法の運用を批判的に考察している。

ハートによれば、わいせつ物規制は、宗教的道徳心に由来する嫌悪感情の表出に他ならない。性的な事柄への不必要な禁忌意識が、国家権力による不当な介入を招いているというのである。真に自由な社会は、こうした非合理的な規制から解放される必要があるというのがハートの主張であった。

また、ロナルド・ドゥオーキンは、表現の自由の規範的基礎を論じた著作の中で、リベラリズムの立場から、わいせつ規制を批判的に検討している。ドゥオーキンは、表現の自由を制約する「やむにやまれぬ理由」の要件を厳格に解し、単なる多数者の道徳感情は、わいせつ規制を正当化する根拠とはなりえないと論じたのである。

こうしたリベラルな立場は、わいせつ規制の限定的解釈を基礎づける上で、示唆に富むものである。わけても、多数者の道徳的反応を無批判に規制の論拠とすることへの警鐘は重要である。「多数決の専制」に陥ることなく、少数者の表現の自由を最大限尊重する視点は、けっして忘れてはならない。

もっとも、現代のリベラリズムには、さまざまなヴァリエーションがある。単に国家の不介入を説くのではなく、国家の積極的関与をも肯定する立場も有力に主張されている。たとえば、C・R・サンスティーンは、表現の自由の実質的保障を重視する立場から、ポルノグラフィ規制の必要性を説いている。女性の名誉やプライバシーを害する表現は、国家による規制の対象となりうるというのである。

こうした議論に示唆されるように、表現の自由をめぐる現代の問題状況は、リベラリズムの伝統的教義をそのまま適用するだけでは対処し得ない局面を迎えているのかもしれない。性をめぐる言説空間の複雑化は、単純な自由放任・国家不介入の発想を超えた調整システムを要請しているようにも思われる。その意味で、リベラリズムもまた、みずからを問い直す契機に直面していると言えるだろう。

4.4 フェミニズムの系譜における猥褻論

フェミニズムの立場からは、「猥褻」概念そのものの脱構築を企図する議論が展開されてきた。性をめぐるダブルスタンダードを糾弾し、既存の性秩序を問い直す思想的営為である。そこでは、国家権力による性規制の背後にある家父長制的価値観が批判の俎上に載せられるのである。

この系譜に位置づけられるのが、A・ドゥオーキンやC・マッキノンに代表される、ラディカル・フェミニズムの主張である。かれらによれば、ポルノグラフィは女性に対する暴力であり、性差別の一形態に他ならない。女性の社会的従属を当然視し、男性の性的支配を正当化する表現は、それ自体が害悪だというのである。

この立場からは、「猥褻」表現の規制は、女性解放のための不可欠の方策ということになる。男性中心の性秩序を脱構築し、女性の性的自己決定を確立するためにも、国家は積極的に介入すべきだと論じられるのである。

だが他方で、過度のポルノ規制は、かえって女性の性的主体性を抑圧しかねないとの批判もある。女性の性的欲望の表現すら「猥褻」とみなす風潮は、旧来の性道徳の呪縛から自由ではない。むしろ、多様な性のあり方を許容する社会を実現するためにも、「猥褻」概念の相対化が不可欠だと説かれるのである。

性をめぐる規範意識や言説空間のジェンダー化した権力性を暴くフェミニズムの洞察は、猥褻概念を脱自然化する上で重要な意義を有する。「社会通念」の名の下に、男性的価値観が密輸入されている現状への警鐘は傾聴に値しよう。

他方、女性の性的主体性をめぐる議論は、「猥褻」表現の意味をより多元的に捉える視座を提供してくれる。ポルノもまた、女性の欲望を映し出す表現たりうるのである。フェミニストの立場からも、性表現の意義をめぐっては見解の相違が存在するのである。

現代思想の文脈において、フェミニズムもまた多様な展開を見せている。ジェンダー秩序の脱構築を説くポストモダン・フェミニズムの系譜は、「猥褻」をめぐる問題系に新たな局面を切り開きつつある。性をめぐる規範の揺らぎを積極的に肯定し、自由な欲望の表現こそが女性解放の契機となるとの立場も有力に主張されているのである。

こうした議論の広がりは、「猥褻」概念をめぐる思想状況の複雑さを物語っている。単線的な物語で割り切ることを拒む現代にあって、私たちはみずからの前提を絶えず問い直していく必要に迫られているのかもしれない。性をめぐる言説が孕む権力性への自覚的まなざしを保持しつつ、表現の持つ可能性に開かれた想像力を培うこと。猥褻をめぐる議論の活性化は、そのための不可欠の契機なのである。

第5章 文学・芸術における猥褻表現

5.1 文学・芸術の自律性と社会的責任

文学・芸術は、人間の内的世界を探求し、美的感興を喚起する表現活動である。創作の自由は、芸術家の表現の自由の核心をなすものと言える。たとえ世間一般の道徳観念に反する表現であっても、みずからの表現欲求に忠実であることが、真摯な芸術家に求められる美的良心の発露なのである。

この意味で、芸術表現の価値は、外部の価値基準からは自律的なものでなければならない。国家権力や大衆の趣味に迎合することなく、表現それ自体の論理を追求する姿勢が、芸術的良心の要請するところなのである。

もっとも、芸術もまた社会の中に存在している。鑑賞者との美的コミュニケーションを抜きには、その存在意義は見出しがたい。創作の自由を担保する一方、表現の社会的影響力にも自覚的であることが、芸術家の社会的責任として求められるゆえんである。

わけても性表現をめぐっては、この自律性と社会的責任の緊張関係が、しばしば先鋭な形で立ち現れる。性の赤裸々な描写は、人間の原初的欲望を喚起する力を持つがゆえに、既存の道徳秩序を揺るがしかねないのである。「猥褻」をめぐる言説の政治が、常に芸術表現を標的としてきたのはそのためである。

だが、性の問題は、人間の実存にとって不可避の主題でもある。生と死、愛と憎しみ、喜びと苦しみ。人間の生の根源に肉迫する表現は、それ自体がしばしば性的なものとならざるを得ない。タブーを犯す芸術的探求は、その意味で人間の本質を照射する営為なのである。

芸術表現をめぐる自由と規制のジレンマは、安易には解消し得ない。だが、少なくとも芸術的価値の存在は、「猥褻」性の判断を左右する重要な考慮要素とならねばなるまい。社会的有害性の評価に際しては、表現の芸術的意義もまた、十分に斟酌されるべきなのである。

5.2 モダニズム文学と性表現の変容

20世紀の文学は、伝統的な性道徳の解体と、新しい性意識の勃興を軸としながら展開してきた。なかでもモダニズム文学は、人間の内面世界を探求する過程で、性の問題を正面から取り上げることとなる。

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は、淫夢や性的空想といった、無意識の深層に潜む欲望を赤裸々に描き出した問題作として知られる。本判決の対象となったD・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』もまた、既存の性道徳を揺るがす大胆な性描写ゆえに物議を醸した。

これらの作品が示すのは、人間の内面に潜む欲望の深淵を凝視する眼差しである。理性では律しきれない生の衝動。自我の奥底に潜むリビドー。こうした非合理的な力への洞察は、当時の性道徳の虚偽を暴き出すものでもあったのである。

もっとも、モダニズム文学の性表現が単なる既存秩序への反逆でないことは言うまでもない。そこには、真に人間的なものへの希求が込められていた。肉体を媒介とした他者との交感。言葉を超えた深層での通底。禁忌を突き抜けた先に垣間見えるのは、生の根源的な充足なのである。

その意味で、モダニズム文学の性表現は、既存の道徳の呪縛から自由な、新しい共同性の可能性を切り拓くものでもあったと言えよう。デカダンスの美学を通して、もう一つの生の倫理を模索する精神的営為。その眼差しは、「猥褻」の言説が前提とする単線的な性のイメージからの解放をも促すものなのである。

5.3 ポストモダニズムと身体・欲望の政治学

1960年代以降のポストモダニズムの思潮は、文学・芸術表現にも大きな影響を及ぼした。ことに身体をめぐる言説は、新たな展開を見せることになる。

ミシェル・フーコーに代表されるポスト構造主義の系譜は、身体が権力と言説に貫かれた存在であることを説いた。医療や司法の言説が、「正常」と「異常」を弁別し、身体を管理・矯正の対象とする権力の編成。その意味で、わたしたちの身体は常にすでに政治的なのである。

こうした認識は、ポストモダン文学にも反映されることとなる。ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』は、ドラッグをめぐる過剰な欲望を通して、身体に刻印された権力の病理を浮き彫りにする。J・G・バラードの『クラッシュ』は、カーセックスへの耽溺を通して、テクノロジーに貫かれた身体の不気味さを描き出すのである。

ポストモダニズムの言説空間において、性はしばしば「越境」の契機として現れる。既存の秩序を攪乱し、新しい欲望の地平を切り拓く表現は、その典型と言えよう。「猥褻」とされるものの中にこそ、彼岸への誘惑が隠されているのかもしれない。

だが、それと同時に留意すべきは、ポストモダニズムの性表現もまた、ジェンダーの権力性から自由ではないということである。女性の身体が対象化される局面は、依然として多分に存在している。「越境」の美学それ自体が、しばしば男性中心主義の呪縛から自由ではないのである。

その意味で、ポストモダニズムの地平にあっても、フェミニズム的な批評の眼差しは不可欠の要件となろう。ジェンダー秩序の脱構築と、自由な欲望の探求。その両義的な緊張関係の中で、新たな表現の可能性もまた拓かれていくはずなのである。

5.4 日本の文学・芸術における猥褻事件の系譜

日本の文学・芸術の歴史もまた、「猥褻」表現をめぐる攻防の連続であった。明治期以降の近代化の過程は、伝統的な性風俗の「矯正」を伴うものでもあった。たとえば、春画は「外道の画」とされ、風俗壊乱の理由から弾圧の対象とされた。

大正期から昭和初期にかけては、自然主義文学の隆盛とともに、赤裸々な性描写が文壇の一角を占めるようになる。婦人公論や中央公論に掲載された広津和郎の小説などは、当時の性道徳の偽善を衝くものとして物議を醸した。検閲との攻防は、表現の自由をめぐる不断の闘争の一環でもあったのである。

しかし、最大の分水嶺となったのは、「チャタレー事件」であろう。前述の通り、わいせつ物頒布の罪に問われた事件である。最高裁の判断は、一定の限界を画しつつも、芸術的価値への考慮を説くものであった。

他方、マンガやアニメ、ゲームといったサブカルチャーの領域では、「非実在青少年」をめぐる表現規制が新たな争点となりつつある。2010年代には、所謂「マンガ規制条例」の動きも活発化し、創作表現と青少年保護のバランスが問われることとなった。

この間、表現の自由の範囲をめぐる議論は深まりつつも、必ずしも社会的合意を得るには至っていない。むしろ、「表現の自由のための表現の不自由」とも称すべき風潮が根強いのが実情と言えよう。芸術表現の持つ可能性に対する寛容の精神。猥褻をめぐる攻防の歴史が示唆するのは、その陶冶の重要性に他ならないのである。

第6章 比較法的考察

6.1 英米法における猥褻概念の展開

英米法の伝統において、わいせつ概念は独自の展開を遂げてきた。わが国の法解釈にも影響を与えてきた英米の判例法理を比較法的に考察することは、猥褻をめぐる普遍と特殊を照射する上で不可欠の作業となろう。

イギリスにおける先駆的判例とされるのが、1868年のHicklin事件判決である。同判決は、「最も感化されやすい人々の道徳心を堕落させ、腐敗させる傾向を有する」表現を猥褻と定義した。「最も傷つきやすい人」を基準とするこの定式は、その後のコモン・ロー諸国の議論に大きな影響を与えることになる。

アメリカでは、連邦最高裁の判例法理が先導的な役割を果たした。1957年のRoth判決は、「平均人」を基準とする立場に転換を遂げる。すなわち、「平均人が、現代社会の基準に照らして、作品全体を観察して、専ら性的興味に訴えるものと判断する」場合に、猥褻とされるのである。

さらに1966年のMemoirs判決は、「明白かつ疑う余地のない証拠」による挙証がない限り、重要な(redeeming)社会的価値のある表現は猥褻とされないとした。社会的価値の斟酌は、芸術的表現の保護を志向するものと評価された。

だが、現在の判断枠組みを確立したのは、1973年のMiller判決である。同判決は、①平均人が現代の社会的価値基準に照らし作品全体として性的興味に訴えると判断されるか、②露骨な性的行為を州法の定める形で描写しているか、③作品全体として真摯な文学的・芸術的・政治的・科学的価値を欠くか、の3要件を提示したのである。

もっとも、その後の判例は、わいせつ概念の相対化を説く立場へと傾斜している。たとえば、1987年のPope判決は、陪審に対し作品の芸術的価値を考慮するよう指示することを求めている。裁判所の役割は、規制当局の判断に追随することではなく、表現の自由の観点から厳格な司法審査を行うことにあるというのである。

比較法的に見れば、英米法の展開は、猥褻概念の外延を画定する試行錯誤の過程とも言えよう。平均人基準の導入や社会的価値の考慮は、わが国の判例法理にも通底する発想である。もっとも、判断基準の修正を重ねる英米の潮流は、「猥褻」なるものの所在がけっして自明ではないことを物語ってもいる。わが国の法解釈もまた、その意味で柔軟な思考が求められているのかもしれない。

6.2 ドイツ法における猥褻概念の展開

大陸法の代表例としてドイツの法状況を見ると、わが国とは異なる展開が看取される。ドイツでは、1970年代以降の刑法改正により、伝統的な「猥褻(unzüchtig)」概念は「ポルノグラフィ」概念へと置き換えられた。これは、わいせつ物規制の対象を、より限定的に捉える趣旨であったと解されている。

ドイツ刑法184条以下の諸規定は、青少年に対するポルノグラフィの頒布・展示や、強制的な形でのポルノグラフィの提示などを処罰対象としている。これに対し、成人に対する一般的な頒布・展示は、原則として処罰されない。この点で、日本の刑法175条とは、規制の射程が大きく異なっている。

また、ドイツ基本法5条3項は、芸術の自由を保障している。これを受けて、刑法184条3項は、ポルノグラフィ規制の適用除外として「芸術」を明記している。芸術的表現をわいせつ物規制から解放する方向性は、立法政策としても鮮明に打ち出されていると言えよう。

背景には、表現の自由をめぐる活発な憲法論議の蓄積がある。「芸術」概念の外延をめぐる議論は、わが国に比して一段と深化している印象を受ける。たとえば、連邦憲法裁判所は、芸術的表現の本質的特徴として、直観的構造やそれに伴う多義性を重視する独自の芸術概念を提示してきたのである。

ドイツの実務は、わいせつ物の流通に対しても一定の寛容な姿勢を示している。1990年代には、わいせつ物の販売を広く認める連邦憲法裁判所判決が下された。同判決は、成人の自己決定の自由を重視する立場から規制を違憲と判断したものであり、英米の判例動向とも軌を一にしている。

他方、青少年保護の要請は、ドイツにおいても依然として重視されている。青少年を過度に性的な刺激に曝すことのないよう、流通方法には一定の規制が及ぶ。インターネット上の情報についても、フィルタリング等の対策が講じられているところである。

ドイツの法状況は、表現の自由の保障と、青少年の健全育成のバランスを模索する試みの一例と言えよう。芸術的表現の保護を明示する一方、青少年に対する悪影響の防止も怠らない。そこには、表現規制をめぐる成熟した社会的議論の反映を見て取ることができるように思われる。

6.3 フランス法における猥褻概念の展開

フランスもまた、表現の自由の伝統が確立した国の1つである。1881年の出版自由法は、検閲制度を全面的に禁止し、表現行為への国家介入を原則的に排除した。もっとも、わいせつ表現については一定の例外が設けられ、公序良俗に反する出版物の頒布・販売等が処罰の対象とされてきた。

だが、1970年代以降、わいせつ規制をめぐる状況は大きな転換を迎える。1975年には、著名な法学者のバダンテールによる「わいせつの終焉」と題する論文が公表された。そこでは、国家がわいせつ概念によって表現を規制することの正当性が根本的に問い直されたのである。

こうした批判を背景に、わいせつ規制の適用場面は著しく限定されていく。1994年の刑法典の改正により、わいせつ物頒布罪の構成要件から、「善良な風俗(bonnes mœurs)」違反の文言が削除された。同規定の不明確性が批判を浴びた結果である。現行法の下では、わいせつ物を未成年者に販売・頒布する行為のみが処罰対象とされるに至っている。

他方、現代のフランスにおいては、表現の自由と他の人権価値とが鋭く対立する場面も生じている。たとえば、2000年代以降、ムスリム女性のブルカ(全身を覆う衣服)の着用をめぐり、「公共の場での顔の隠蔽禁止法」が制定された。宗教的シンボルの公的空間からの排除に対しては、信教の自由の観点から批判もある。

ここには、普遍的価値としての「非宗教性」と、多文化主義的価値としての宗教的多様性の緊張関係が表れている。わいせつ表現をめぐる文脈とは異なるが、両者はいずれも、自由の価値と公共性のバランスが問われる点で共通している。多元化する現代社会にあって、そのバランスの軸をどこに求めるかは、容易には答えの出ない問いなのかもしれない。

フランスの経験は、表現規制をめぐる議論の成熟と、それに伴う新たな対立の局面を示唆するものと言えよう。わいせつ概念の相対化は、より根源的な価値対立を浮かび上がらせずにはおかない。それでもなお、寛容の精神に立って自由な議論を重ねることの重要性は、いささかも揺るがないはずである。

6.4 アジア諸国の動向

欧米諸国と比べ、アジア諸国の法状況は必ずしも明らかではない。わいせつ概念をめぐる議論の深まりという点では、日本の方が先行しているようにも見受けられる。もっとも、近年は、政治の民主化や経済発展を背景に、表現の自由への関心が高まりつつあるのも事実である。

中国では、出版物の事前審査制度が存在し、国家による介入の度合いは依然として強い。だが、他方で、インターネットの普及に伴い、わいせつ情報の氾濫も深刻化している。取り締まりの強化を求める声が高まる一方、表現の自由の価値を重視する主張もある。急速な社会変動の中で、新たな秩序の模索が続いているのが実情と言えよう。

韓国は、日本と類似の法体系を有している。わいせつ物の規制については、「電気通信事業法」や「情報通信網利用促進および情報保護等に関する法律」などの特別法が存在する。インターネット上の有害情報の取り締まりは、日本以上に積極的に行われている印象がある。もっとも、表現の自由の重要性を説く声も根強く、規制の在り方をめぐる議論は活発化している。

台湾もまた、わいせつ物の流通規制に関し独自の法制度を有している。有線テレビやインターネットについては、「衛星放送テレビ法」や「インターネット情報内容格付け推進条例」などの特別法により、青少年保護の観点から有害情報の遮断措置が図られている。日本との共通性は小さくないが、中国の影響を受けつつ独自の展開を遂げている面もある。

シンガポールは、言論統制の強い国として知られる。わいせつ物の規制も厳格で、刑法292条以下の諸規定により製造・流通等が広く処罰の対象とされる。同性愛に関する情報の流通規制をめぐっては、国際的な人権団体等から批判の声も上がっている。多民族国家としての秩序維持と表現の自由の確保。その難しいバランスが問われ続けているのが現状と言えよう。

アジア諸国の法状況は、それぞれに特殊性を有している。わが国の議論状況をそのまま当てはめることはできないだろう。しかし、急速な情報化の進展や国際化の波の中で、わいせつ概念をめぐる共通の課題に直面していることもまた事実である。アジア地域における建設的な議論の深化は、日本の法解釈を相対化する意味でも重要な意義を有しているように思われる。

第7章 考察の統合

7.1 自由と規制のジレンマ

本稿における考察を通じて明らかになるのは、わいせつ概念が孕む複雑な対立構造である。表現の自由の価値と、社会秩序の維持。芸術表現の自律性と、国家による規制の要請。これら両極の緊張関係は、容易には解消し得ないジレンマを生み出している。

法的観点からすれば、明確性の原則や比例原則に適う限定解釈の要請は大きい。曖昧で広範な規制は、適法行為を萎縮させる危険性を孕んでいる。この意味で、わが国の現行法の運用には、なお多くの課題が残されていると言わざるを得ない。わいせつ概念の外延を可能な限り明確化し、表現の自由の範囲を画する試みは、けっして軽視できない意義を有しているのである。

他方、社会学的観点からすれば、急速に変容する性をめぐる価値観や規範意識への目配りも欠かせない。単一の物差しでは測り得ない、現代社会の複雑な位相。その只中で、われわれは既存の道徳律を相対化し、より柔軟な判断枠組みを模索する必要に迫られている。「社会通念」なるものの所在を絶えず問い直す作業は、規制の濫用を防ぐ歯止めとしても不可欠なのである。

加えて、芸術の自律性をめぐる議論は、さらに根源的な問題提起を含んでいる。表現それ自体に内在する価値基準の存在。外部からの介入を拒絶する美的形式の論理。芸術もまた、法の支配を免れ得ない以上、そこには調整原理の定立が求められることになる。「わいせつ」をめぐる攻防は、その意味で芸術と法の境界線画定の試金石ともなっているのである。

しかし、だからと言って、国家が全く介入し得ない純粋な芸術的自律の領域が存在するわけではない。芸術家の社会的責任が俎上に載せられる所以である。表現の持つ現実的影響力への自覚。受容者の尊厳を踏みにじることのない表現姿勢。芸術的良心の名においてすら免れ得ない倫理的要請が、そこにはあるはずなのである。

哲学的考察の示唆するところもまた、自由と規制の調整原理を見出す手がかりとなるだろう。無秩序な自由放任でも、過度の国家的パターナリズムでもない、第三の道の可能性。「危害原理」や「オフェンス原理」は、その意味で具体的な指針となり得る。もっとも、それが現実の立法や司法の場でどこまで機能するかは、なお多くの課題を残したままである。

要するに、自由と規制のジレンマは、安易な解決を拒むものでしかない。むしろ、ジレンマの不可避性を直視した上で、可能な限り寛容な調整の仕組みを構想することこそが、われわれに求められている営為なのではないか。そこで得られる解もまた、文脈依存的で暫定的なものにすぎないかもしれない。だが、葛藤を恐れることなく思索を深化させ、討議を重ねる意義は、けっして失われることはないはずである。

7.2 多元的価値の衝突と調整原理

わいせつ概念をめぐる議論が示唆するのは、価値観の多元化に直面した現代社会の課題でもある。かつて自明視されてきた道徳律は、もはや唯一の正当性を主張し得なくなっている。「わいせつ」をめぐる価値の対立は、まさにその症候なのである。

法的次元での対立は先鋭である。表現の自由、プライバシー権、性的自己決定権、青少年の健全育成、男女平等、宗教的信条の自由。わいせつ規制が関わるこれらの諸価値は、ときに両立不可能な要求を突き付けてくる。その調整は、もはや単純な優劣関係では割り切れない難題と化している。

社会規範もまた、均質的な様相を失いつつある。同性愛をめぐる意識の変化は、その端的な現れと言えるだろう。「猥褻」とされる行為類型そのものが、歴史的文脈に応じて変転してきた事実もまた、忘れてはならない。単一の物差しで人々の性意識を測定することの不可能性は、いよいよ明らかになっている。

それでもなお、共存のための最低限のルールが不可欠なのもまた事実である。「寛容の限界」をどこに見出すかは、共同体の存続にとって避けて通れぬ課題なのである。ここでは、多数決原理に依拠した機械的な線引きは、もはや説得力を持ち得ない。可能な限り少数者の価値観を尊重しつつ、社会の統合を図る原理が求められているのである。

わいせつ規制をめぐる利益衡量も、まさにこの課題に直面している。猥褻概念を可能な限り限定的に解し、多様な性的指向への寛容の精神を堅持すること。他方で、社会的弱者の保護や公共の福祉の要請にも適切に応えること。その両立は、安直な妥協を許さぬ高度な調整を要請してくるのである。

むろん、ここで万能の解決策が存在するわけではない。ケース・バイ・ケースの利益衡量の積み重ねによってしか、具体的帰結は導かれ得ないだろう。一般的抽象的な規制原理を立てることの限界もまた、明らかになりつつある。現実の司法判断が、往々にして事案限りの妥当性しか持ち得ないのは、まさにそのためなのである。

重要なのは、衝突する諸価値の錯綜に自覚的であり続けることではないか。特定の価値を絶対視することなく、ケースの個別性に即して具体的な調整を図ること。硬直的な二元論を排し、可能な限り寛容な解決を目指すこと。多元的な価値の衝突の中で、われわれに求められる態度は、おそらくこの点に集約されるのである。

7.3 現代社会の課題と展望

わいせつ概念をめぐる諸問題は、ある意味で現代社会が直面する根源的なアポリアを浮かび上がらせている。ここで得られる知見は、性表現の規制という限られた領域にとどまるものではない。自由と公共性、国家と個人、多数者と少数者。これら対立項の緊張関係を調停する、新たな共同性の構想もまた、そこから導き出されるべき課題なのである。

情報化とグローバル化が急速に進展する現代にあって、わいせつ概念の相対化は避けられない趨勢と言えよう。国境を越えた情報流通は、多様な価値観の交錯を不可避のものとしている。ローカルな共同体の規範意識を普遍化することの困難は、いよいよ明らかになっている。トップダウン型の規制は、もはや有効に機能し得ないのである。

だが、だからと言って、わいせつ概念が無用の産物と化したわけではない。社会的弱者の保護や、公共の場の秩序維持といった要請も、依然として消滅してはいない。「猥褻」をめぐる価値対立の調整は、これからも私たちに突き付けられる課題であり続けるだろう。その意味で、わいせつ概念の現代的意義を探求することの必要性は、けっして失われてはいないのである。

むしろ、わいせつ概念の将来的展望としては、より柔軟で文脈依存的な運用と、ボトムアップ型の規範形成への移行を図ることが、重要な方向性となるように思われる。一律の基準による획一的な規制は、もはや社会の実態に適合的とは言い難い。問題とされる表現類型に即した個別具体的な判断枠組みの定立が求められているのである。

また、国家による一方的な介入に代えて、市民社会の自律的な規範形成を重視する発想もまた、不可欠の要件となるだろう。わいせつ概念の内実づけは、何よりもまず、人々の主体的な価値判断を通じてなされるべきものなのである。表現の自由と公共性のバランスもまた、その文脈の中で探求されることになる。

加えて、わいせつ情報との付き合い方を学ぶメディア・リテラシーの涵養も、ますます重要な意味を持ちつつある。ネット時代の若者に求められるのは、情報を主体的に選別し、批判的に吟味する能力である。善悪の判断を国家に委ねるのではなく、みずからの倫理観に基づいて情報に対峙する。その意味で、わいせつ概念もまた、個人の自律と責任の契機として、新たな意義を獲得しつつあるのかもしれない。

現代に生きる私たちに求められているのは、わいせつ概念の限界を直視しつつ、その現代的可能性を探ることではないだろうか。多様化する価値観の中で、新たな公共性の地平を切り拓くこと。そこでは、国家と社会の関係もまた、より双務的で水平的なものへと変容を遂げるはずである。わいせつ概念をめぐる思索の深化は、まさにその展望を開く営為なのである。

第8章 結語

8.1 チャタレー事件最高裁判決の現代的意義

本稿では、チャタレー事件最高裁判決を素材としつつ、猥褻概念をめぐる多角的考察を試みてきた。そこで得られた知見は、多岐にわたるものであった。わいせつ規制の限界と可能性、自由と公共性の相克、多元的価値の調整原理。判決の射程は、これらの問題系の広がりに開かれていたのである。

同判決の歴史的意義は、今日なお色褪せてはいない。わが国におけるわいせつ規制の基本的枠組みを提示した先駆的業績であることは、疑い得ないところである。社会通念を基準とする判断枠組みや、芸術的価値の考慮を説く姿勢は、その後の判例の規範的支柱ともなってきた。半世紀以上を経た現在でも、その先見性は高く評価されるべきものと言えよう。

しかし、同時に看過できないのは、同判決の内包する緊張関係の深さである。一方で、多数意見は、猥褻概念の相対性を認めつつも、「性交の非公然性」という不変の原則に依拠して、本件訳書を「猥褻」と断じている。そこには、歴史的文脈を超えた規範的命題を希求する思考が垣間見える。

他方で、少数意見の示唆するところは、大きな示唆に富んでいる。真野裁判官の補足意見は、「猥褻」概念の時代的・地域的相対性を鋭く指摘している。

このように、同判決の内部には、すでに現代的な問題関心の萌芽が含まれていたのである。「猥褻」をめぐる言説の揺らぎへの自覚。表現の自由の手厚い保障を志向する態度。そこには、単線的な物語では割り切れない、複雑な思考の軌跡を看取することができる。

換言すれば、チャタレー事件判決は、まさに過渡期の産物としての性格を持っているのである。戦後の価値観の激変と、高度成長期の社会意識の変容。その狭間で、伝統的な規範意識と、近代的な自由の理念とが交錯する。わいせつ概念の限界と可能性もまた、そうした歴史的文脈の中に刻印されているのである。

その意味で、現代の視点から同判決を振り返ることの意義は小さくない。変化の時代にあって、普遍を希求する困難と、その不可避性。自由と公共性の調停を図る司法の苦闘と、その実践的英知。判決の陰影に読み取られるのは、まさに現代に通底する問題状況なのである。

同判決から半世紀以上を経た現在、猥褻概念は新たな展開を見せている。インターネットの爆発的普及は、情報流通の形態を一変させた。グローバル化の進展は、ローカルな価値観の普遍妥当性を揺るがしつつある。ジェンダーの多様化は、性をめぐる言説空間を書き換えようとしている。

こうした現代的文脈の中で、わいせつ規制の射程もまた、問い直されることを免れ得ない。「社会の変化に対応した規制の再構築が、あらためて私たちに突き付けられた課題なのである。その意味で、規制と自由のバランスを模索した、チャタレー事件判決の現代的意義は、けっして失われてはいないのである。

8.2 表現の自由の確保に向けた提言

チャタレー事件最高裁判決が示唆する現代的課題を踏まえ、本稿の結びとして、表現の自由の確保に向けた提言を試みたい。それは、多元化する現代社会にあって、わいせつ概念の運用指針を探る作業でもある。そこでは、従来の規制の枠組みを相対化しつつ、新たな調整原理を模索することが求められているのである。

第一に、わいせつ概念の限定解釈の徹底が不可欠の要件となる。とりわけ、政治的・社会的表現や芸術的表現に対する不当な萎縮効果を可能な限り回避するために、より限定的な基準の定立が必要とされよう。「徒に性欲を刺激興奮させ、普通人の正常な性的羞恥心を害する」といった抽象的基準では、規制の対象が不当に拡大されるおそれがある。

第二に、青少年保護の観点を過度に一般化することは、慎重であるべきである。成人に対する過度な国家的パターナリズムは、自己決定の自由を損なう虞がある。もとより、過激な性表現から青少年を保護する必要性は疑いない。だが、そのことと成人の判断の自由とは、可能な限り切り分けて考えるべき問題なのである。

第三に、メディアの多様化に応じた規制手法の再構築が求められる。とりわけインターネット上の情報規制については、従来型の規制の限界が指摘されて久しい。フィルタリング等の技術的手法の活用とともに、ユーザーのリテラシー向上や、プロバイダーの自主規制の促進など、多角的な取り組みが必要とされよう。

第四に、わいせつ概念の現代的意義を考える上では、国際的動向への目配りも欠かせない。グローバル化の進展により、情報流通の国境は急速に低下しつつある。欧米諸国のわいせつ規制の動向のみならず、アジア諸国の法状況にも十分な関心を払う必要があろう。わいせつ概念をめぐる比較法的考察は、各国の文脈を踏まえたきめ細やかな分析を要請しているのである。

第五に、わいせつ概念の将来的展望を切り拓くためには、国家と市民社会の関係の見直しもまた不可欠である。公権力による一方的な規制に代えて、市民の自律的な規範意識の形成を重視する発想が求められている。そのためには、わいせつ概念をめぐる公共的議論の活性化を図るとともに、多様な価値観の存在を前提とした寛容の精神を涵養することが肝要となろう。

以上のような観点は、いずれも単一の解を予定するものではない。むしろ、複雑な利害調整のプロセスを通じて、文脈に即した解決を探ることこそが、現代に求められる法の役割なのである。その意味で、表現の自由の確保に向けた取り組みもまた、おのずと多元的で複層的なものとならざるを得ないだろう。

チャタレー事件判決から60年余り。わいせつ概念は、現代社会の課題と向き合う新たな局面を迎えている。もはや、伝統的規範への回帰も、無秩序な自由放任も、現実的な選択肢とは言い難い。求められているのは、自由と公共性の調和を図る、新たな共同性の構想なのである。

その展望を切り拓くためにも、わいせつ概念の射程を問い直す作業が不可欠となる。表現の自由の価値を守りつつ、社会の多様性を尊重する。そこでは、わいせつ概念それ自体が問い直されることを免れ得ないだろう。そうした自省的な考察を通じて初めて、現代社会にふさわしい新たな規範が見出されるはずなのである。

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