『雪女の涙』
朧月が冴え渡る夜、ある樵(きこり)が深雪に覆われた森を歩んでいた。
吹雪に閉ざされ、村への帰路を見失ってしまったのだ。
樵の名は与助。
彼は村で最も腕の立つ樵として知られていた。
「ああ、この吹雪の中をさまよい続けるのか…」
与助は絶望に沈む。
深い孤独と恐怖が彼の心を支配していた。
雪の中で凍え死ぬことへの不安が、影のように彼につきまとっていた。
彼の脳裏には、家で待つ妻子の顔が浮かんでは消えていった。
「おれが死んだら、妻も子も悲しみに暮れてしまう。なんとしてでも生きて帰らねば…」
そう自分に言い聞かせながら、与助は必死に前へと進んでいった。
その時、ふと足元に小さな足跡を見つけた。
うずくまる与助の前に、やがて白装束に身を包んだ孤高の麗人が、ゆっくりと姿を現した。
「迷われたのですね」
雪女である。雪女は幽かに微笑み、与助の手を取って立ち上がらせる。
「心安らぐ憩いの場所へ、お導きいたしましょう」
与助は、言葉を失うほどの美しさに息を呑んだ。
雪女の白い衣装は、凛とした気品と神聖さを湛えていた。
まるで、この世のものとは思えぬ美しさだった。
彼女の黒髪は、夜空に煌めく星のように輝いていた。
雪女に導かれ、与助はただ彼女の後を追った。
雪女の足取りは軽やかで、まるで雪の上を舞うかのようだった。
一方、与助は深い雪に足を取られた。
「どうかお待ちください…」
与助は切ない気持ちで呟いた。
すると、雪女は振り返り、与助に微笑みかけた。
その微笑は、凍てつく夜空に射す月明かりのように、与助の心を温かく照らし出した。
やがて二人は、雪に包まれた森の中の小屋へとたどり着いた。
木造りの小屋は、まるで自然と一体化しているかのようだった。
屋根には分厚い雪が積もり、窓からは炉火の明かりが漏れていた。
中に入ると、暖かな炉火がゆらめき、木々の香りが満ちていた。
小屋の内部は質素ながらも、どこか温かみがあった。
すべてが自然と調和していた。
「ここで一夜を明かせば、安らかに過ごせましょう」
雪女は与助に囁く。
「ただ、私のことを誰にも知らせてはなりません。それが、私のお願いです」
与助は静かに頷いた。
雪女の言葉には、哀愁が漂っていた。
彼女の瞳に宿る孤独を、与助は感じ取っていた。
それは永遠に人間と関わることのできない、雪女の宿命ゆえの孤独だった。
二人は炉火を囲んで語らった。
雪女は自然の美しさや不思議について語り、与助は人間社会の喜びと悲しみを語った。
雪女の語る自然の物語は、与助の心を魅了した。
山の神秘、川の恵み、森の生命力。
与助は、自然との一体感を感じずにはいられなかった。
一方、与助の語る人間の物語に、雪女は深い興味を示した。
人間の営み、家族の絆、心の機微。
雪女は、人間という存在に対する理解を深めていった。
互いの世界を分かち合うことで、二人の心は通い合っていた。
しかし同時に、永遠に交わることのできない宿命を、二人は痛いほど感じていたのだった。
夜が更け、与助は熟睡した。
雪女は与助の寝顔を優しく見つめ、自らの運命を思った。
永遠に人間と関わることはできない、それが雪女の宿命だったのだ。
「ああ、与助様。あなたのような心優しき人間に出会えたことが、私の喜びです」
雪女は、そっと与助の頬に口づけた。
冷たくも、どこか温かな感触だった。
そして翌朝目覚めると、雪女の姿はもうそこにはなかった。
ただ、小屋の戸口には一輪の白い花が置かれていた。
与助は、その花を手に取った。
花弁に、雪女の面影を見た気がした。
「雪女よ、あなたとの出会いを、私は決して忘れません…」
不思議な出会いを胸に秘め、与助は村へと戻っていった。
あの夜の記憶は、彼の心の奥底にしまわれていった。
雪女への想いは、生涯消えることがなかった。
***
月日が流れ、与助は家庭を築いた。
妻と二人の子供に囲まれ、与助は幸せな日々を送っていた。
しかし、彼の心の片隅には、あの雪女への想いが消えることはなかった。
「お前に心奪われたあの日から、俺の人生は変わったのだ…」
与助は、雪女との思い出を胸に、日々の生活を送っていた。
彼は、ある日、雪女から学んだ自然への畏敬の念を子供たちに伝えた。
子供たちは与助の話を聞いたあと、山に遊びに行った。
だが、急な吹雪となり、村の子供たちが遊びに出たまま戻らない。
与助の子供たちも、その中にいた。
必死で探すが、どこにも見当たらなかった。
与助は、あの日の記憶を思い出す。
雪女の美しい面差しが蘇ってくる。
「もしかしたら、雪女なら子供たちを助けてくれるかもしれない…」
そう思った与助は、森の奥へと急ぎ、叫んだ。
「雪女よ、どうか助けてくれ!子供たちを助けてくれ!」
すると再び、吹雪の中から気高き雪女が現れた。
しかし、その表情は悲しみに満ちていた。
「与助様、あなたは約束を破ったのですね」
雪女の瞳には、哀しみの色が浮かんでいた。
「私はあなたを信じていたのに…」
「私の過ちを許してくれ!」
与助は嘆願する。
「どうか、せめて子供たちだけでも…!」
雪女はしばし思案した後、ゆっくりと頷いた。
「あなたの子供たちは助けましょう。しかし、これが最後です。もう二度と、あなたの前に現れることはできません」
そう言って、雪女は白い衣の裾をはためかせ、森の奥へと消えていった。
まるで、雪の精霊のようだった。
その姿を見送りながら、与助は雪女への感謝と、深い喪失感に胸を締め付けられた。
自分の不始末によって、雪女を失望させてしまったことを、与助は後悔していた。。。
程なくして、小屋で子供たちが発見された。
奇跡的に助かっていたのだ。
しかし不思議なことに、小屋の周りには晴れわたる青空の下、真っ白な雪原が広がっていた。
そこには凍りついた雫が、いくつも散りばめられていた。
それは雪女の涙。。。喜びと悲しみの結晶だったのだ。
一つ一つの雫が、雪女の感情を物語っているかのようだった。
辺りには人の姿もなく、ただ冷たい風に乗って、木々の芳香が漂うばかりだった。大自然の静寂が、辺りを包んでいた。
子供たちとの再会を果たした与助は、雪女への感謝の念を心に刻んだ。
同時に、彼女を二度と頼ることができないという現実に、深い喪失感を覚えていた。
「雪女よ、私は一生あなたへの想いを胸に生きていきます…」
与助は静かに誓った。
それ以来、吹雪の夜に子供が行方不明になっても、必ず無事に見つかるようになったという。
村人たちは、それが雪女の加護によるものだと信じていた。
村人たちは雪女を偲び、小さな祠を建立した。
彼女の慈悲に感謝を捧げるためだった。祠には、雪女の白い衣装をまとった人形が祀られていた。
人形の顔は、優しく微笑んでいた。
まるで、人間たちを見守っているかのように。
そうして年月は流れ、今でも吹雪の夜になると、森の奥から優美で悲痛な嗚咽が聞こえてくるのだとか。
それは永遠の孤独を生きる雪女の、凍てついた涙の調べなのかもしれない。人間への愛惜と、儚さを湛えた魂の歌なのだろう。
与助もまた、生涯にわたって雪女への想いを胸に秘めていた。
彼は雪女との出会いによって、自然の神秘と美しさを知った。
そして、人間と自然との関わりの中に、深淵な真理を見出していたのだ。
「雪女との出会いは、私に生きる意味を教えてくれた…」
与助は、そう語り継いでいった。
雪女への想いは、彼の心の支えとなっていた。
月光が雪を照らす夜、与助は森の中で静かに目を閉じる。
雪女との思い出が、走馬灯のように蘇ってくる。
「ありがとう、雪女。おれは、あなたとの出会いによって、人生の真の意味を知ったのだ」
与助の魂は、雪女への感謝の念を胸に、静かに自然の懐に還っていったという。
雪女と与助の物語は、今も村人たちの間で語り継がれている。
人と自然との絆、そして儚くも美しい愛の物語として。
吹雪の夜、雪女の嗚咽は、今も森に響き渡っている。
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