見出し画像

大きな壁、小さな背中

31日。親父に遅ればせながらのバースデープレゼントとしてゴルフしてきました。親父も同級生を連れてきての4Bでのラウンドでしたが、天気にも恵まれ(終わってクラブハウスに入った途端の土砂降り)お互いに池越えで声出しあって、スコアも個人的には2桁で収まり、本当に楽しい時間でした。

画像1

昨年までは一緒に白から周っていたけど、今日は金ティーからだったな。
年々変化はあって、ちょっとしみじみしたりしちゃいました。

こんなリア充っぽい投稿して、仲良し親子みたいに見えるかもしれません。
もちろん、今は仲良しですが、昔はまーーー仲が悪かった。
というか、私が認めてなかったといった方が正しいのかな。

なにせ私の過去においての原動力は
「親父みたいにはなりたくない」でしたから。

ふと、親父との関係性が劇的に変わった事件を思い出したのでNoteにしてみました。初投稿は、副業に向けた構想・意気込みとか、Life Purpose Coachingセッションの結果にしようかと思っていたけど、まだ仕上がらないので、これがNote初投稿です。

思い起こせば、ずいぶん前に名古屋で自作のワークショップを開催しようと準備をしてたいたときに、U理論のレベル3とレベル4を説明できるエピソードをと思って、一度湧きあがったタイミングはあったのですが、白い粉の海外出張頻度がすさまじく激しくなって御蔵入りしてしまっていました。今回、Authentic Works社のプログラム紹介を先日させていただいたのと昨日のゴルフでまた湧き上がってきた感じです。

簡単に書けるかと思ったら、長文になってしまいました💦。他人に見てもらうというよりは、残しておきたい記録に近いものなので、あしからず。

では、はじまりはじまり。

私の生まれは、周りはレンコン畑に囲まれ、岐阜県の山々が西に連なってみえる愛知県の片田舎。夏は照り返しが暑くて、冬は伊吹おろしと呼ばれる北風が強烈で向かい風で自転車漕ぐのが大変だったのをよく覚えています。

画像2

親父は5人兄弟の4人目で、実家がレンコン畑を挟んで向かいにある
ロケーション。土地を譲ってもらって家を建てたらしい。でもって、
本家はずっと尾張の地で農業をしてきた家系のようだ。

親父は跡継ぎではないので、本家からは出て就職。ただ、物心ついたときには、脱サラして自営業。パパママ事業だったので、
従業員はおらず、家にいると留守番させられるのが日常でした。

留守番していてイヤだったのが、声が相当似ていたらしく、親父としょっちゅう間違えられたこと。電話に出ると取引先のほとんどが、親父が電話に出ていると思いこんで、全部知っている前提でペラペラと用件を一方的に伝えて電話を切られ、正確に聞き取れてないと親父に叱られてというのが嫌で嫌で。留守番電話サービスが出てきたときは本当にうれしかったのを覚えていますw

あと、何かにつけて、親父は自分の言うことを聞かないと、怒鳴ったり、家の外に出されたりと、まー怖い存在でした。高卒でやんちゃだったとか、ラグビーやっていたとかいう過去もあって実際に腕っぷしは強かったしね。それでも向かっていくこともあったのだけど、最後はねじ伏せられていた感じでした。

親父の仕事は、〇川急便の中京地区のトラックの荷台のシート張りと修理、あと、同社の春・秋の福利厚生的な社員イベント(たしか春が潮干狩り、秋が運動会)の請負がメインでした。後者は中京地区で働く社員だけでなく、そのご家族も参加していたので、バスが何十台も押し寄せるイベントでした。何社かの中小企業が組んでイベントを成り立たせていたのだけど、親父の会社はパイプテントのリース(50針くらいだったかな)と設置・撤去。その年2回の大イベントには毎回20名くらいのバイトを集めて、大きい声で仕切っていました。イベント当日は、朝4時とかの早朝に家を出てイベントが始まる前に準備をし、終わった瞬間から片づけて帰ると21時くらいになる丸一日がかりの仕事だったのを覚えています。楽しかった記憶は、イベント中にコンサート(ほとんど演歌の歌手で覚えてないけど、本田美奈子さんは未だに覚えている♪)を観ることができたこと、元中日やら元阪神の野球選手とかが所属していたから結構レベル高い支店対抗の野球の試合が楽しめたこと、あと、イベント後の片づけが終わった後にケータリングの会社が用意してくれていた恒例のバーベキュー、うまい肉やら海鮮が食せたりしたこと。そういう楽しみもあるにはあったんだけど、重たいパイプテントの骨組みを砂浜の中で、設置・撤去する作業を小6くらいからやらされていて、それが毎年毎年。。。ぜんぜん前向きに取り組めませんでした。

周りから「跡を継ぐのか?」と訊かれるたびに、【絶対にない】という思いが強くなったのを覚えています。なんかあるたびに親父が口出ししてくることや、そのときの言い方がいちいちカチンと来て、反応的に激しい口論になることは頻繁にあって、そんな会話が繰り返されるのと比例して、その【絶対にない】ループを強化していたと思います。

こうして「親父みたいにはなりたくない」という自分が出来上がっていったんだと思います。親父を超えるではなく、親父の息子であることの否定といってもいいのではないかなと思います、当時は。

そんな思いを抱えながらも、自宅から出ることなく、中高大と通いの生活が続き、愛知県の尾張地方と名古屋市から出たことのない人生(あ、正確には高校時代に1度、3週間の語学留学でイギリスには行っていますが、ベースはという意味で)を過ごしていました。

そんな平凡な日常に、事件が起きたのは大学2年の時でした。

ほぼほぼ専業主婦に近く、いつも家にいた母。親父は長野の松本市や京都までカバーをしていたこともあって、しょっちゅう家を空けていて、まだアルコール規制も緩かったので飲んで帰ってくることもしょっちゅう。留守を預かる母親には、細かいことでイチイチきつくあたることがあり、それがまた親父の嫌いなところでもありました。ずっと母が家に縛られていることに同情していた部分もあったと思います。

冬休みだったと思うのですが、私が家にいたある日のいつも通りのお昼でした。庭から僕の名前を呼ぶ声が聞こえました。ただ、庭にいるはずなのに、やけに遠くから聴こえるような。。。

「なんだろ、なんか手伝えっていうにしてはおかしいな」

と思って庭を覗きにいった矢先に、母親が眼前の視界に飛び込んできたかと思いきや、バッタリと倒れたのです。遠くから呼んでいたのではなく、大きい声が出せない状況だったのです。

そしてしゃべれなくなり、けいれんし始め、右半身がマヒしているのが判りました。何が起きたか、受け止められず、焦る気持ちばかりが募る。

「救急車ーーーー!!」

頭がパニックになりながら、全身の血が引いていくのを感じながら、電話に飛びついて救急車を呼びました。いまだにその緊急連絡したときの記憶はありません。親父は、その日も遠出していて不在。俺がなんとかしなきゃと思っていたのだけ覚えています。

10分くらいで救急車が来て、そのころにはマヒが幸いもどって母が話せるようにはなったのですが、そのまま搬送されて入院することに。妹も家に いるので、母の意向で搬送先の病院名だけ聞いて、親父が帰ったら病院へ行くことになったんですが、、、ぜんぜん帰ってこない。当時、我が家にはまだ携帯電話がなく、待つしかない。14時過ぎても、15時過ぎても帰ってこず。17時になっても帰ってこず。母がどーなったのか心配で仕方なく、でも何もできないまま時間が過ぎます。

19時過ぎでした。

「ただいまーー。(母の名前)〇〇ーー!どこだーー?」

なんも知らずご機嫌で帰ってきたその様子に、母親の心配で緊張感が高かったのと、このタイミングで飲んで帰ってきたことへの苛立ちとが繋がって「親父、何しとったんや!母ちゃん倒れて救急車で運ばれたわ!」から始まり、正確な言葉までは覚えていないけど、親父のことを責める言葉を続けて吐き出した。我に返った親父とあわてて病院へ行き、脳血栓の緊急手術を植えた母が待つ病院へ。(幸い、今に至るまで何の障害も残らず、回復している。)

命に別条がないことを確認でき、ほっとして自宅へ戻った。

自宅に戻ると、おさまりがつかない俺は親父と口論に。いま思えば、相当に不安や怖れにまみれていたのだと思うが、親父がその責め言葉に、このタイミングで反応して、「誰が飯食わせてると思っとるんだこのやろーー」ととびかかってきた。いつもならこうなる前に母が割って入るのだが、その母は入院中。いつか起きるべきことが起きてしまったのかもしれない。小さな家の廊下の端から15歩くらい勢いよく俺にぶつかってきた親父。

昔から怖かった親父だったけど、実際にぶつかるのは中学以来。こっちは成人してずっと体育会でバスケを続けていた。

お互いに相撲みたいな組み合う態勢になる。その瞬間だった。

「親父、こんな小さかったっけ。。。」

すーーーっと冷めていく熱。急に冷静になり時計の針が遅くなる感覚。組み合っている親父は身長は167cmくらい。浅黒く頭頂部まで日焼けした肌。筋肉質の腕。でかいと思っていた存在だけど、俺の方がずっとでかい。 

「こんな小さな体で、自分を大きく見せようとがんばって、ここまで育ててくれたんだ」

「親父から見たら、今の俺が相当に怖かったんじゃないか。。。」

「だから、親父の威厳を見せるために強く見せようとしてたんじゃないか」

と、まだ組み合ってる最中なのに、向こう側から自分を見ている感覚に我に返り、興奮する親父を尻目に

「ごめん、もーいい。いーんだ。わかった。わかったから。悪かったから」

そーなだめ続けて場が収まった。涙が込み上げてきたな、あのときは。

この事件のあの瞬間、親父の息子である自分を受け入れることができた。そんな感覚を強く持つようになれた、そんな変化を体感しました。

以来、いきなり仲良しこよしになれたわけではないけど、ことあるごとに親への感謝を伝えるようになり、それを重ねてきたことで、今のリア充な関係になってきたのかなと思う。

そうすると不思議と見えてなかった眼鏡で親を見ることになる。知らないところでいろいろやってるみたいだ。一例を挙げれば、東日本大震災のときは、テント資材を福島の幼稚園に送って感謝状をもらっていたり、今年国からもらった一律10万円のお金をそのまま寄付にあててたり、できる範囲の善を尽くしているらしい。はっきり言って、廃業して資産があるとは言えないのに、そういう他人思いなところはとても誇らしいなと思えるようになってきた。

この両親のもとに生まれてよかったと今は心から感謝している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?