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映画「海辺の映画館-キネマの玉手箱」(2019)

映画に対する愛に溢れた作品だった。そして監督やその周りの方々の、映画の力を強く信じる気持ちに勇気づけられた。映画は素晴らしいエンターテイメントであると同時に、未来ある希望のコンテンツだと思い知らされ、何とも幸せな時間を過ごした。

過去の大林作品に出演した人々がオールスター感謝祭よろしく次々登場することや、「HOUSE」や「花筐」にも見た要素(自由で奇抜なモンタージュ、絵画かと錯覚するようなコラージュ的なカットなど)をまた見られることも楽しい。大物俳優をちょっとした役で使ってしまうみたいなところも、商業的な制約に捉われずものづくり出来る監督ならではの自由さなのだろうか。とにかく大林監督の「これまで」、そして観客である私たちに期待される「これから」を凝縮させた、濃厚な3時間だった。

映画は高橋幸宏演じる「爺・ファンタ」(「HOUSE」で大場久美子が演じた少女ファンタが思い出される)の、宇宙での語りから始まる。そこから視点は瀬戸内の海辺にある映画館へと移り、物語が始まる。この冒頭、劇中の若者たちが映画に心躍らせる様子に自分を重ねて観てしまった。映画を見るの、楽しいよね。「さあ、始まるぞ!」という気合いの入り方、とてもよくわかるのだ。映画見ながらラムネを飲んだことはないけど、たまにシネコンでメロンソーダとか飲むと超おいしいよね。寝てる人もよくいるし、それが何よりも贅沢な時間であることもよくわかる。ちょうどそのとき私の後ろの座席からいびきが聞こえてきて(たぶんおじいさんだったと思う)、「どこまでもメタ的〜!」と感動してしまった。

さて、瀬戸内シネマで上映される映画はフィルムが焼けたりなんかしつつもどうにか進んでゆく(とっても「ニューシネマパラダイス」!)。そんな中、偶然映画館に居合わせた若者3人は、作品の世界観に没入するうちに映画の中に入り込んでしまう。あらゆる時代の、あらゆる戦に出逢い目撃し、その凄惨さを知る。不条理な死や、失われてゆく尊い命。その中で、少女「希子」を守ろうと奮闘する3人。ただ傍観者として遠くから見ているだけだった3人が、時代が進むにつれて映画の人々と深く関わっていくようになる。

彼ら3人と同じようにどことなく「他人事」と思って傍観していた観客の私の意識が変わりはじめるのは、太平洋戦争のあたりだったと思う。中原中也の詩を引用することで、日頃無意識的に感じている、今この時代における不安が炙り出されたような感覚になった。

「文明開花と人云うけれど 野蛮開発と僕は呼びます」。今年発行された核兵器禁止条約に、日本が批准していないことを私は思い出した。

うろ覚えだけど「情報操作は他人事だが映画は自分事として考えられる」や「観客の僕らが動かなくてどうする」といったセリフがあった。映画の正しく理想的な使い方を、大林監督は心得ているのだ。後者の細田善彦さんによるセリフはあまりに直接的で、心臓を鷲掴みにされてしまった。

沖縄戦での無意味な惨殺、軍国主義の馬鹿馬鹿しさ。そして広島に原爆が落とされた日のこと。「ピカ!」「ドン!」この一瞬で大勢の人が亡くなってしまった。桜隊(実在した劇団)の亡くなったメンバーの氏名、当時の年齢が全て読み上げられたシーンが印象的だった。とにかく、この映画は観客である私たちに語りかけているのだ。大林監督の切実なメッセージと強烈なエネルギーが押し寄せてくるようだった。

そういえば監督ご自身がピアノを弾くシーンがあった。自分の記憶にある大林監督のイメージ(ふくよかで、モジャモジャの髪と髭をたくわえている風貌)とは異なり、そのお姿はすっかり「ご老体」だ。しかしピアノを弾く様子には、あの痩せ細った身体では信じられない力強さがあった。まるでこの作品のエネルギーそのものだ。


劇場を出てもなお、スクリーンを通して受け取った、言語化できないほど強烈なエネルギーが自分の中で渦巻いていた。渦巻いていて、これをどこにどのように昇華させるべきなのか、ここのところ毎日考えている。

とりあえずは、できるだけこのエネルギーを取りこぼさないように、弱らせないように生きていくことだろう。

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