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本当は生活なんてどうでもいいけど、毎日服を着る

本当のところは、生活なんてどうでもいいと思っている。
毎日何かを食べるとか、顔を洗うとか、風呂に入るとか、そういうことは全然したくない。

自分の信条や思想・思考のほうが自分の身体よりも、何百倍も重要だから、実を言うと生活なんて放っておいてしまいたい。
でも今の私は、身体がないままに思考することは不可能なので、身体を健康に、清潔に維持するために毎日毎日、来る日も来る日も「生活」している。

観念的な世界に生きようとしている友人がよく、メタバース上での生命維持を話す。固有の体なんて持たず、完全に自由な創造的な世界で、自分のイメージのみによって身体´を持ち日々を送る。
この話は面白みのある一方、なんだかあんまり好かない。なぜなら私は、生活は嫌悪しているが身体を嫌悪はしていないからである。

私の脳と身体は「服」が繋ぎとめている。

「服を着る」と言う行為は、私の脳が身体に反映される瞬間で、そしてその多くの瞬間に、身体から脳への強烈な働きかけがある。
服を着る、いわゆる「ファッション」は確実に「生活」の範疇にありながらも、私の思考に刺激を与えてくれる。

脳→身体 創作としてのファッション

着る服を決める時、「違和感」を大事にしている。というか、私はあらゆる創作行為において「違和感」を重要視しているかもしれない。
ストレートな表現はあんまりしたくない(この文章はストレートな表現だ)。
私が行う他の創作行為と違ってファッションは、自分の持てるものと想像が良い感じに現実にマッチする可能性が高い。

絵を描く時、私はいつも自分の想像に対して自分の技術が足らないのが悔しくてたまらない。
布を使って何かを作る時、私はいつも自分の想像に対して布屋にある布が合わないのが悔しくてたまらない。
当然のことながら、大抵の創作活動は想像が現実に先行している。だからうまく現実に表すことができなくて悔しい。

でもファッションはあくまで生活の範疇にあるから、そもそも想像段階が現実に依拠している。
なお、いわゆる「ハイファッション」というやつは想像段階が現実ではないんじゃないだろうか。想像行為を現実に落とし込む創作の意味合いが強い場合、ちょっとびっくりするようなファッションも確かに登場するのだと思う。

生活の中で、ファッションによって小さな違和感を創造する。観念の世界がごく小さくも、しかし確実に現実化する。
もちろんこれは誰にも気づかれなくていい。私だけの創作でいい。

服を着ることは完全に「生活」だが、そこにプラスアルファの可能性があって、単なる「生活」を「創作」にすることができる。その余地がある。
例えば料理も同様で、料理は生活だが、そこにプラスして自身の創作活動にすることもできるのだと思う。ただ私はそんなに料理は好きじゃない。でもお菓子を作るのは好きだ。
お菓子を作るのは料理をするのに比べて無意味さがある。必要のなさというか、生活ではあるけど優先順位が低い。
ファッションも同じで、生活ではあるけど行き過ぎるとそれは生活にとって無意味だ。

脳で発生している物事が、ファッションによって現実化する。明らかにこれは創作活動で、だから服を着るのは楽しい。
かったるい「生活」の中で、服は私の創造意欲をかきたててくれる。

身体→脳 演技としてのファッション

私が生活を嫌悪しながらも、自分の身体性をそこまで忌避しない、むしろ好んでいる理由は服にあり、そして服によって発生する自分の「演技」にある。

着る服によって行動が変わる。普段カジュアルな服を着る人がスーツを着たらなんだかぴしっとするように、服からもたらされる「演技」、これは普遍的な態度で私に固有のものではないと思う。

演劇をやっていたとき、やっぱり練習段階からオフィーリアを演じる人間はスカートを履いていなければならない、と感じた。スカートを履いている人間とズボンを履いている人間は、同一の人間であってもその行動に変化がある。
スカートを履くことによって生まれる身体への無数の気遣いが人を独特に動かせるし、身体を動かすことでスカートがひらめくたびに異なる表象を持つ。
演劇における衣装は、観る人にキャラクターを教える役割ももちろんあるけれど、それ以上に、役者自身へのアプローチがあると思う。衣装は役者の身体に動きを与え制限する役割を持っている。

私は毎日、服を着ることによって昨日の自分に逆張りしている。毎日がコスプレで、毎日が演劇である。

そして身体が行う演劇によって、私は私の脳みそがまだ知らない可動域を持っていることに気付く。私の身体がどういう風に動くのか、想像を超えて身体が思わぬ方向へ行くと、脳がブレる。
ブレる脳みそを感じると、思考がまた発展する。もやもやとした霧がかかっていて見えなかったところが実は到達可能な範囲で、身体の動きによってその場所に偶然気が付くのである。
私はまだまだたくさんの可動域を持っていて、それは身体にまとうファッションによって手を伸ばし足を踏み込むことができる。
身体が脳より先に、その場所の存在に気付く。

身体が私の脳に教える。私の想像力にはまだまだ動ける範囲があることを。

やっぱり生活なんてどうでもいい

自分の身体に関する努力は一切しないと決めている。ヒップアップのためのスクワットとか、脚を細くするためのマッサージとか、筋トレとか。
なおいつもこの話をするとき、田中泯さんの話と花山薫の話をする。みんな「わかるけどわからない」という微妙な顔をして聞いてくれる。私もこの例が適切なのかさっぱりわからないけど尊敬しているのは確かだ。

装うことと身体そのものにアプローチすることは全く別だと感じている。
服は皮膚とは違う。「服装(外見)は内面の1番外側」、なんて言うけれど私の思考回路ではそうはならない。
あくまで身体があって、そのうえで装いがある。身体は生活で、装いは創作である。
でも装いによって身体は、その動きに制限をつけたり、可動域を広げたりする。だから私は身体が好きだ。

ここ3年程で、体にフィットした、ラインが出る服も着れるようになった。
幼い時、私は細い体を持っていて、背の高さがないのはすごく嫌だったけれどその細い体のことは気に入っていた。段々成長するにつれて体はその細さを失っていき、足を出すことやピッタリした服を着ることができなくなった。
時間治療だろうが、少しずつ、細くなくなった自分の体をやっと受け入れることができるようになってきたのだと思う。

身体への過剰な努力はしない。生活の有様が身体に現れるだけだから。
生活なんてどうでもいい。なにを想像してなにを考えるかが重要だから。

生活の一行為である服を着るという行為には、ファッションという形で創作の意味合いを持ち、そして服は身体を動かし、動かされた身体が思考に影響を与える。

どうにか生活と脳の折り合いをつけられたのがここだった。

観念的な世界のみで生きることはまだできない。日々実直に、生活を一歩一歩踏みしめていくしか他はない。服は私の観念世界と現実をうまく繋ぎ止めてくれる。


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