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日記:外で本を読む

大学に通っていたころ、私は家が遠いため、毎日毎日、電車に1時間以上乗っていた。
電車に乗っている時間は、読書の時間だった。家が遠いことを悪いことだと思いたくなかったから、電車に揺られる時間を少しでも有意義なものにしたかった。

院生のころはともかく、学部生の時はそれなりにイマドキな女子大生だった(になりたかった)ので、インテリのみなさんには怒られるかもしれないが、信じられないほど小さなバッグで通っていた。
教科書なんて持ってなかった。印刷したレジュメを丁寧に折りたたんで、それとボールペンを一本。小さくてかわいいバッグにそれらを入れ、あとはメイクポーチ。それだけでもうバッグはパツパツだけれど、隙間に一冊文庫本を押し込む。冬ならコートのポケットに。大抵古本屋で買った、経年劣化で小口が茶色くなったSF小説で、お気に入りの茶色の革のブックカバーに包んでいた。

リュックなんて、絶対に使わない! と強く思っていた(院生になってからそれを諦めた)。

そういうわけで、私は6年間、電車に揺られながら毎日本を読んでいた。読書=電車、だった。
この4月、突如その「読書の時間」が消滅した。卒業して、大学に通う必要がなくなって、電車に乗らなくなったからだ。

とはいえ時間と積読はあり余っているわけだから、本を読む。家の中で、ゴロゴロしながら毎日毎日本を読んだ。

そうした日々を送りながら、「本をどこで読むか」って、すごく大事な要素なんじゃないだろうか、とふと思った。
電車で読むのと、家で読むのと、その「読書」はなにかが違う。どちらが良いとか悪いとかではない。なんなら家で読むのも、椅子に座って読むのと、床に座って読むのと、ソファで寝転んで読むのとでは、それぞれ何かが違う。

最近知り合った京都の人が、鴨川で本を読んでいる、という話をしていた。直観的に「羨ましい」と思った。鴨川、いろんな人が行き交い、川が流れ、鳥の声、木々のざわめき、太陽。
「私も外に出よう」と思った。書を持って、まちへ出よう。

リュックに本を詰め込む。全部読むなんてことはないんだけれど、一応、あれもこれも、詰め込む。Kindleにも何冊かダウンロードしておく。
パソコンを持っていくか、iPadを持っていくか、いつも悩む。大抵パソコンにする。タブレットPCだし。ペンを忘れない。
水筒に冷たいお茶をいれる。この水筒には大学名がしっかり刻まれている。大手水筒メーカー2つの社長がうちの大学の出身なので、この大学にいるとなにかと付録で水筒がもらえるから家に水筒がたくさんある。

ずっしりと重くなったリュックを自転車のカゴに入れて、大きな公園に行く。

広大な芝生を縫うように道がある。道の両端には大きな木々が生えそろい、穏やかな木洩れ日を作り出す。
大きな犬を連れた小柄な女性と、小さな犬を連れた細くて背の高い男性がすれ違う。ピクニック写真を撮影している若い女の子たち。こどもたちが叫び遊びまわるのを日陰で見ているお母さん。杖をついたおじいちゃんがゆっくりと歩いている横を、ジョギング中の夫婦が追い抜いていく。立派なカメラを持った女性集団はお花の写真を撮影中。小学生たちは縦横無尽な自転車捌きを披露しながら友達の名前を呼んでいる。芝生のなかの木の下ではキャップを顔にかけて眠っている人もいる。

私は木陰のベンチの脇に自転車を止めて、腰を降ろす。木陰だから涼しいけれど、ここに来るまでの道のりが暑かった。冷たいお茶が喉を通り、身体が少しずつ正常になる。

木村敏『異常の構造』をリュックから出す。講談社学術文庫、思いのほかページ数が少ないからあんまり気負わず読めそうだ。
これは『現代思想2024年6月臨時増刊号 現代思想+ 15歳からのブックガイド』に載っていた、松本先生の「「ふつう」の手前から考える」で紹介されていた。Kindleでもちょうど松本先生の『創造と狂気の歴史』を読んでいる。先日大学に行った時も友達とこの話になったから、色々読んでおきたい。

この2ヶ月、図書館で本を読むことも多かったのだけれど、どうしても音が気になってうまく文章に入れなかった。静寂な図書館にいるたくさんの人々の発する音、自分の音も気になってしまう。それに窓辺の席は日差しが強くて暑い。私の目の機能は本当に悪くて、明るすぎる日差しは私の眼前を白くして何も見えなくしてしまうし、暗すぎるとこれまた何も見えない。ブラインドから影と光が同時に文章に乗り、うまく文章を追えない。

外は良い。公園はどこからも閉ざされていない。完全に、その言葉通り、「開かれている」。そもそも静寂じゃない、だからすべては騒音じゃない。犬の吠える声、子どもたちの遊ぶ声、行き交う人々の声。私の息を吸う音も、吐く音も、全てが目立たない。
太陽の光をすごく心配していたけれど、しっかりとした木々の下にいれば特に問題ない。木々が作り出す影の濃さはちょうどよくて、そこから太陽に照らされている場所を見ても、コントラストは酷くなくて、私の目でもきちんと機能してくれる。

ここ数日、晴れている日はその公園で本を読んだ。別に進み具合とかは気にしていないので、「現れる」部分で読書のなにかが変わったかと言われても特によくわからないのだけれど、気分が良い。

もっと夏が本格化して気温と湿度があがってくるとさすがに難しいのかもしれない。今は良い季節だ。

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