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ネットの声が大きいことと、多様性を認める不寛容の時代 #24

こんにちは🎵まどかです。

最近ちょっとネットの声が大きいなと感じていて、
そのことと多様性について考えたことを
今日は書こうと思います。

気軽に読んで行ってね!

今までは、現実のなかにインターネット・SNSがある、
という感じがあった。

だけど今は、ネットの方が現実よりも重要になってきている気がする。

書いていてそんなことあるかな、と自分でも思うけど、
行動したひとのことを匿名で笑いものにしたり、
「ネットでバズっているもの」をメディアが何度も特集したり、
知らないうちにSNSやネットのコメントでジャッジされている。
SNSの声が大きくなっている気がする。

今は多様性の時代だと言われるけど、
本当にそうかな。

SNSで多様性に配慮すべきだという声が
大きすぎて、私はむしろ現実社会で
「これはセーフな考え方かな・・・?」
と考えることが多くなった。

でも、見えない「ネットのひと」に
対して失礼じゃないかな、とか
配慮できてるかなって考えるのって
本当の配慮でも本当の言葉でもないと感じた。

本当の配慮は、
目の前のひとに向けてすることだよね。

相手に伝わりやすい言葉で、表現で、
相手にまなざしを向けて、
そうして自分の思いや伝えたいことを
相手に配慮とともに届ける。
それが言葉の使い方じゃないのかな。

今は誰もが評論家の時代なのかな。

私自身ドラマやお笑いの分析をするから、
自分も評論家のようなところがある。

だけど、第三者による、作品や人物の分析・評価よりも、
評価された本体の方に、必ず高い価値があると思う。

それを知っていながらコメントするのと、
知らないままコメントするのでは、
やはり使う言葉や言い回しが変わってくるね。

作品や人物に対するリスペクトがあれば、
自然とリスペクトが含まれる文章になるんじゃないかな。

何でもSNS、何でも写真、どこでも動画。
自分の好きだったものが、SNS映えとして
本来の楽しみ方とは少し違う流行り方を見て
寂しくなることが増えました。

私はやっぱり現実の出逢いを大事にしていきたいな。

多様性というのは、寛容さの押し付けであってはならないと思う。

今の日本社会が多様性を認める社会に
近づいていることが事実だとしても、
不寛容はそのまま残っている。

多様性を認めなくてはならない不寛容な時代。
(言い過ぎたかな)

もっと人々が寛容になれば、
必然的に人々の個性や、異なる考え、価値観を
認められる、「真に多様性のある」社会になると思う。


残念ながら、多様性を認めるだけでは
寛容さに結び付かないと思う。
理解できなくても許容することに限界がきて
排他的な思考を強める気がする。

まずは、今の社会が、人々が、不寛容であると捉えて、
人々が寛容になろうとすることが必要だと思う。

そしたら自分のことも他人のことも、
受け入れることができるようになって、
多様性のある社会、多様性を認める社会を
実現できると思う。

多様性を認められないのもまた多様性だ。

人々が寛容になるには、システムや制度を
変えていく必要があるけど自分にできることから
一つずつやっていくしかない。

自分が他人にイライラするときは、
自分の抑圧された感情が目を覚ましたときで、
過去の経験で自分が無意識にストレスを感じた
経験を探して、認めて、
認められなくても、
その認められない自分を認めようとして、
癒して、自分を許そうとする。

それを何度も繰り返して、
だんだん自分を許せるようになったら
他人の言動も許せるようになるんじゃないかな。

ネットで他人に攻撃するひとは、
そのひと自身が何らかの
コンプレックスや心の傷を刺激されたからなのか、
言葉の重みを知らないからなのか分からないけど、
攻撃性の強い言葉を平気で使うひとが減ってほしいな。

SNSでのひとや情報との出逢いが増えた今こそ、
現実での出逢いがより価値のあるものになっている。

現実での多くの出会い(ひと、情報、物事などなど)に
もっと感謝していきたいな。

最後まで読んでくれたあなたにも、
素敵な出会いがありますように。

最後まで読んでくれて、ありがとうございました!
また気軽に読んで行ってね。

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