なんかふとおもった

 存在は消失しないから存在する。人間に適応させると死んでない状態を生きているという遠回りな言い回しになるだろうか。死ぬために人は生きるわけではないが生きるということは死ぬということと表裏の関係であることは間違いではないだろう。その意味ではまず死は悪ではない。そう考えないと(誰もがいつかは死ぬため)人間はどんなに善い行いをしたとしても全員が悪人となってしまうからだ。死に悪という烙印は相応しくないのである。一方で死に方についてはどうだろうか。特に安楽死についてである。

 恐らく生きるという権利を拡張させるために人類は多くの労力を割いてきたといってよい。なぜなら人権(自由など)は普遍的なもののように思われるからだ。では死の権利はどうだろうか。何となく自由に死ぬことができるという大義は間違っているように思える。死の権利を拡張させることは悪のように聞こえてしまうのである。生の権利があまりにも強いためどこか忌避するきらいがあるのかもっと別の要因があるのか(例えば生の権利、あるいは人権が整えられたのが西洋だと考えるとキリスト教における自殺の扱いについてなど)わからないが自由意志で死を選ぶことはどこかおかしいという感覚は現代人の共通理解だと思われる。しかし権利は感情ではない。一つの理論であり思想である。ということで死の権利の一つとして挙げられるであろう安楽死について少し考えてみたい。

 繰り返すようだが権利に感情を持ち込むのは間違いであろう。つまり、安楽死という一つのシステムにバグやエラーが起きるのかどうかという視点で捉えるべきである。あと僕は日本人なので国内でどうかという点に絞るべきであろう(絞らなくてもよいのかもしれないが)。論点としては実際に起きている自殺に対する功利主義的観点からの考察、共同体(特に家族)に対してどのていど配慮すべきか、医師の倫理性などが大きな問題点だろう。以下にみていく。

 まず自殺者は年間3万人程度いる。これは恐らく大きく増えることもないだろうし大きく減ることも中々想像しづらい。つまり、年間3万人苦しみを伴って死に至るという事実が存在しているということである。一方で、社会正義の一つの考え方に最大多数の最大幸福という思考法がある。今回の場合は逆転?させて最大多数の最小苦痛を目指すべきだろうか(死ぬということは一般的には幸福とは考えにくいからだ)。そうするともし毎年自殺する3万人が全員安楽死を選ぶことができるなら社会全体の不幸(痛み)は最小になるのではないだろうか。つまり、実際に起こっている自殺という事実を目前とすると安楽死は導入すべきであるという結論が導かれるのである。

 補足:この意見に対して自殺を促す社会が悪い、という反論を思い浮かぶ人がいるかもしれない。この反論に対する反論としては社会は完璧を目指そうとしてもどこかで抑圧される者を生んでしまうという指摘ができるだろう。つまり自殺者が1人でもいたら安楽死を導入すべきなのだ。1人も自殺者が生まれない完ぺきな社会は今の僕たちからするとあまりにsf地味ているため考慮すべきではないと言える。

 次は共同体に対する責任である。共同体というと学校や会社、地域など様々考えられるがここでは家族に焦点を当てる。何故なら家族は市場的なロジック(交換の原理)とは切り離された「崇高」な共同体と思われるからであり、ゆえに唯一責任が発生する場だと思われるからだ。ここで区別するべきなのは親と子という違いであろう。区別すべきなのはこの関係性には非対称的な特性を見いだせるからだ。つまり、親は子を作り子は作られたという関係性である(色々ツッコミたい気持ちはわかるがカッコつきの一般的、あるいは抽象的な話をしたいと思っているため補足はしません)。こういうと親も祖父母の子だということで子とはまた違った非対称性を親-祖父母の間に探すことができるのはたしかだが、親はその非対称性を乗り越えているために子を作ったともいえるので(それを暴力だという考えから脱している)ここでは親と祖父母の非対称性については考えなくてよいことにしたい。ではこの非対称性は何を生み出すだろうか。(独断的かもしれないが)この非対称性は先ほど記した「崇高」なものを創造する原動となるのではないだろうか。一般的に愛と呼ばれるものがそれである。親は非対称性という暴力を子に対する愛により中和させるというわけだ。そして責任は故に発生すると考えられる。愛というと漠然としてイメージが湧きにくいため教育や食事や住居といった具体的な例を出す方がいいのかもしれない。要は子は愛と現実的な意味での経済的な援助を受けているのである。その意味で本人の死は家族の意向を伺うべきであろう。学校に行かなくても会社に勤めなくても生きていけるが親がいなければ生きていない(産まれていない)からともいえる。子ではなく親も同じくそうである。何故なら子から親に対する愛というものもあり得るためである。

 補足1:家族に対する責任という点で考えたが家族のせいでということもありうるだろう。その場合はこの話は全てチャラになる。この段で言い訳がましいような複数の「」がついているのはそのためである。下の2つ目の補足は交換のロジックが入り込んでいる共同体のため逆にこの補足1に照らしわせるような形で記していく。

  補足2:共同体という広い意味合いを持つ言葉を使っているため会社や学校などに対する責任について記していこうと思う。会社の場合はもし会社のせいで安楽死を選ぶ場合はその人が悪いのではなく全面的に会社の責任でありそれによって会社が被害を被るということになってもそれは組織責任(こんな言葉あるのかな?)である。そのため前段では取り上げなかった。学校については僕が現在20代前半という実態に基づくと感情の振れ幅が大きく環境要因てきにもまだ可能性があるという年齢と思われるため学生に対しての安楽死を認めるという姿勢にどうしても消極的になってしまう。その2つを取り合えずは満たすであろう30代以上が僕の思う安楽死適用年齢である。

 最後は医師の職業倫理の問題である。これについては(多分)探せば多くの本があると思われると容易に検討がつくためあまり語ることはないし法医学などが関わってくると思われるため素人が(前2つの点はこれに比べてぼんやりしている問題のためある程度書いたが)語るべきでもないだろう。安楽死用のテクノロジー(AI医師など)に期待したい。

 僕は安楽死は認められるべきという意見だ。生は偶然性を帯びすぎているため死はもっとオープンになるべきだと思う。死を神秘化させる態度には否定的だが同時に安楽死という制度がモラルハザード的な社会合意に落ち着いてしまうのではないのかという危機感もないわけではない。しかし、死の権利は生の権利同様拡張されるべきだとは思っている。


 

 

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