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【日報】読書遍歴 20240607(6/9追記)

 県内図書館にて借りた。

桝田省治(2010)『ゲームデザイン脳:桝田省治の発想とワザ』技術評論社.

 現在『俺の屍を越えてゆけ(PSPリメイク版。以下、『俺屍』)』をプレイ中で、ネットのインタビュー記事だけでなくもっと氏の言葉に触れたいと思い取り寄せた。

 僕はこの手の「ノウハウ本の形を借りた、著者の思考回路に触れるエッセイ集」に目がない。確かにノウハウとしての汎用性には欠けるかもしれないが、今回に限って言えば「いかにして『俺屍』は形作られたか」というところの理解を深められるからである。

 と同時に、僕がクリエイターたり得なかった要因の一つは分析癖の無さだったんだろうな……とも感じる。

 あるいは〝怠け者〟を自称しながらも、けして現実の社会生活とコミュニケーションをないがしろにしているわけではないところなどは、各種インタビューからも垣間見えるその人脈の広さや、続編『俺の屍を越えてゆけ2(俺屍2)』にあるプレイヤー間の通信によってゲーム体験を拡張する部分にもつながっていると感じた。

押井守(1995)『注文の多い傭兵たち:オシイマとその一党のコンピュータゲームをめぐる冒険』メディアワークス.

 あっちが「桝田節」ならばこちらは「押井節」であり、のちに『Fallout4』や『ドラゴンクエストビルダーズ』を通じて周知されるゲーム哲学(RPG考と言い換えても良い)が遺憾なく発揮されている。

〈リプレイ編〉と〈企画編〉に分かれており、前者ではRPG世界に輪廻転生を繰り返すオシイマの独白劇にうんざり(純度100%の押井脚本をまともに受け取ろうとすればするほど誰しもが一度は感じるであろう感覚に陥ることの意)し、後半では押井的リアリズムに支配されたゲームの企画書にうんざりする。

「『サンサーラ・ナーガ』シリーズの『装備品が壊れる』『主人公は成長しない』『お役所仕事で一日かかる』って、まだやさしい方だったんだな」などと得心したような心持ちでうなずく読書体験だった。

 たぶんわざとプレイヤーを不快にしたいわけではなく、そうじゃないとリアリティのあるゲームにならないと突き詰めて考えているからこそこういう企画書になるのだ、とわかってしまうから何か困る。

 特にリアルタイムアドベンチャーを謳う「水晶の滑鼠:THE CRYSTAL MOUSE(クリスタルマウス)」に至っては、〝風前の灯と化しつつあるAVGを救う為〟と言いながらゲームオーバーになる要因の多いリアリズムの自縄自縛でむしろジャンルにトドメの一撃を食らわすんじゃないかなあ……と思った。ゲーム内に秋葉原を丸ごと作ってしまう、というのは後の『AKIBA'S TRIP』が部分的には達成しているが。

 しかしながら、おそらくポスト『ウィザードリィ』として企画されたであろう「蠱毒の迷宮:THE GREAT MAZE OF OVERKILL」は1999年の『バトル・ロワイヤル』に先駆けて底辺冒険者を集めたデスゲームもののように見える。ダンジョン内の武器や罠の設置といったランダム性もあり、もしもこれを現在主流のデッキ構築型ローグライトRPGの様式で作ったら、意外といい線いくんじゃないか? とその先見性に舌を巻いた。

 まあ、企画の主題は戦闘後の死体処理とか周囲の人間を出し抜いて死闘に勝ち残ることにあるっぽいので、あまりクソ真面目に考えるところではないのだろうが……。

上記の企画と全く関連性はないが、ローグライクにおいては多少の理不尽さもスパイスになることの一例として。
しかしながら押井監督のリアリズムはそうした「思いのままにならないゲーム性」の範疇にとどまらない〝任意の世界の実現〟に重きを置くので、僕の想像した「蠱毒の迷宮」は監督の思い描くゲームではないのだと思う


 二冊を読み比べて見えてきたのは、「現実の気晴らしに『たかがゲーム』と割り切って遊んでもらいたいゲームデザイナー」と「現実と同等の仮想現実に没入したいゲームユーザー」の二極だった。

 特に二者とも敵モンスターの概念をその世界の生態系(エコシステム)として定義し直し、そこにプレイヤーの手を介入させてランダムな変化を起こさせる新たなゲームデザインを提示しているところが見逃せない。リアリズムとゲームが交錯すると、やはり最終的には市場経済のシステムとその相場を予想する遊びへと行き着くのだろうか? 個人的には『賭博黙示録カイジ』の「限定ジャンケン」編を連想した。

 僕はどちらかと言うと「クソ真面目にゲームの世界へ没入することで、人生を棒に振った」側の人間だから、むしろ『俺屍』のように中断ポイントが作りやすいようデザインされ、事あるごとに世界観を打ち壊すメタフィクション的な洒落を混ぜ込む姿勢に驚かされた。

 今、僕がプチコン3号というプログラミングソフトで作っているRPGの構想(数年かかっているが未だゲーム未満のプログラムリストだ)においても、果たしてソレが「売れるゲーム」に値するのかはさておいて、シナリオよりもまずシステムに重点を置き、その計算されたランダム性によってドラマを生み出そうと決意するに十分な体験を『俺屍』と桝田氏の言葉から与えられたのだった。

 また『注文の多い傭兵たち』では、RPGプレイヤーの行動原理を〝殺戮と掠奪〟と痛快に言い当てている。

 そうした〝欲望の再生産〟を繰り返すうちに、討ち果たすべき敵もその目的もなくなったプレイヤーキャラクターはデータとして保存されるが故に自らの生命を絶つこともできず、どこまでも孤独になっていく。

 これは僕のTRPG体験からも同意できる事実であり、こちらの場合どう始末をつけようと「彼女オウカ」を抹消することはできないのだから、折に触れて思い出してやればいい……という結論に至ったのだが、この哲学(指摘とも言う)が今から29年前にはすでに存在したということを知ることができた。面白い。

(了)

追記としての余談

  • 『ゲームデザイン脳』には「秋山絵美」なる女性が本書の編集者として登場する。
     が、その姿は桝田氏の筆からしか語られず、その実相もフィクションとして尾ひれをつけて誇張されたものであった。何より巻末には〝いちいち本気にしないでほしい〟とまで書かれている。
     おそらくは出版当時においても「隣にいたら迷惑だけど聞くぶんにはお笑い」というギャグのつもりで書かれた内容ではあったのだろうが、それから10年後のホワイト化社会においてはいち会社員としての不適切さをジョークとして笑い飛ばすことが難しいキャラクターである。
     本書がゲームマニア層のみならず一般的な社会人や女性層をターゲットにしていたであろうことは、ピンクを基調とした装丁の雰囲気や〝秋山絵美のために書く〟というコンセプトから読み取れるのだが、本当にその思惑通りになったのかどうか、今となっては知る術がない。
     また、僕自身もあえて「秋山絵美」なる人物のことをネット上で検索するようなことはしない。

  • ある書評サイトで桝田氏の文体を「自己愛」と評するのを見かけたが、それは本書に通底するある種の「独断と偏見」によるものかもしれない、と付記しておく。
     僕が感嘆した分析癖で例えれば『俺屍』の誕生秘話として語られるエピソードも「なぜ親族は孫や曾孫の誕生に喜ぶのかを考える」「翻って自分が曾孫を見る喜びを疑似体験できるゲームを企画する」というプロセスを踏んでいる。
     このように、分析とは当人の世界観や性格によって評価や応用の仕方が大きく左右されるものであるから、本書に期待するのは大衆的な一般論ではなく「桝田省治にとってこの世界はどのように見えているのか」というその一点である。
     であるからして、そのテキストは一種のナルシシズム(やけに自信たっぷりで俗世間から一歩引いた感じ)に裏打ちされたエッセイにならざるを得ないのだと僕は考える。
     ただし自己性愛的であってもゲームで徹夜するプレイヤーのファンレターに〝猛省〟しているように、決して他者に無関心ではないからこそ、子供の遊びからサーカスに至るまで柔軟に外部の情報を取り込み分析する慧眼が備わっているのだというところに注意したい。僕はそれを指して「分析癖が無くばクリエイターたり得ない」と書いた。

  • ネット上における桝田氏のインタビュー記事は2014年の『俺屍2』発売前後のものが最多であり、ゲームユーザーが『俺屍』というゲームタイトルの「続編」に何を求めているのか、に対する氏の回答を目にすることが多い。
     そこでは支持層を〝システムまわりを面白いと思っている人と、シナリオなりキャラクターなりの世界観を好きになっている人〟の二者に大別した上で、
    〝前者のユーザーは極論すると、シナリオが変わればシステムは同じでもかまわない〟
    〝後者のユーザーについても、たとえば新しい敵が登場しつつ、これまでの人気キャラクターが新しい試練に立ち向かったり、新しく仲間になるキャラクターがひとりふたり増えるというのが、求められているものに対する新要素として安定したパターンになる〟
     と述べている。

 そこで僕が桂馬跳びに連想したのが『ウマ娘 プリティーダービー』や『学園アイドルマスター(以下、『学マス』)』といった、ひとつのゲームシステム上で複数のキャラクターひとりひとりのシナリオを追加していくことで2年や3年といったサービス運営を図っていくソーシャルゲーム(ソシャゲ)の形態だった。
 あれは言わば、ソシャゲというシステムを攻略することに喜びを感じる人や、好みのキャラクターをガシャで引き当ててシナリオを追いかけることに喜びを感じる人がいて、開発陣はナンバリングこそしないまでも常に「続編」をリリースしているわけなのだなと、現代のゲーム業界とそれを支持するゲームユーザーの構造について納得した。

  • 『学マス』のプレイ中気になって一シナリオの早回し周回時間を計ったらおよそ30分であった。例えば一日一回だけ一シナリオをやる、と考えれば余暇に差し込むには手軽だと感じる。
     しかしながら(『学マス』に限った話ではないが)ソシャゲはプレイヤーが中断ポイントを決めにくく設計されている──桝田氏の言葉を借りれば〝歯止めが利かない〟──のではないかとも思う。
     最もプレイングを停滞させる「AP切れ(スタミナ切れ)」も、回復アイテムさえあれば継続できる。あるいはイベントミッションのように、プレイヤーの持つリソースをつぎ込めばつぎ込むほど「お得」になるシステムをちらつかせもする。
     桝田氏のインタビューが集中する10年代は〝「Free-to-Play」型(=基本プレイ無料)〟ゲームの台頭にゲームマスコミのみならず世界中が危機感を覚え始めた時期でもあったため、どことなく「業界のご意見番」的な立場からのコメントを求めたものか、桝田氏は「ソシャゲについてどう思うか」という質問を折に触れて何度も受けている。

 その中で桝田氏は、ソシャゲの課金システムについて射幸心を煽る構造に苦言を呈するにとどまっている。
 ここまでの読書を絡めた私見を述べるに、そこには「お金を払ってでも『得』がしたい=キャラクターの能力向上にしろシナリオの補完にしろ、ゲーム内の欠けた部分を満たしたい」とする人間の原始的狩猟採集ハックアンドスラッシュ本能に根ざした〝欲望〟と、そのゲームが間断なく配する〝欲望の再生産〟の構造こそが、ソシャゲという怪物と人間が共生する世界を生み出したのだと考える。
 だからこそ今日こんにちのソシャゲは一つのゲームジャンルとして確立したのだろう。それは人間の脳の構造としては幸福であったのだろうが、個人の幸福としてはどうだったのかが、わからない。

 ただ「『俺屍』のゲームシステムはソシャゲ向き」というネット上の風説に関しては、あくまで『俺屍』のプレイングが一般的なRPGよりも短いスパンで完結するというだけで、むしろ『俺屍』はソシャゲの理念とは真っ向対立するゲームであることは、よくわかった。

  • 『注文の多い傭兵たち』の書評などについて書かれたテキストをネット検索していると、「ブリタニアの草原にて」の章におけるオシイマの独白と桝田省治氏の仕事を比較するという稀有な一致を見せたブログ記事が2点ヒットしたため、付記しておく。

 特に「いわさき」氏は、〝単に「物語」からもっとも無難な(明確な方向性を持たぬ)「状况設定=世界観」を拝借している段階〟という一文を引用してゲームにおける「ナラティブ」という概念を〝やや批判的に見ている〟という。

 たしかに『俺屍』や『ウィザードリィ』といったRPGにはプレイヤーのコントローラ捌きからなる能動的なゲーム体験に対してトレボー城塞都市や迷宮のイメージ、黄川人から断片的に語られる迷宮やボス敵の縁起などといった〝明確な方向性を持たぬ〟情報しか配られず、残りの物語的な情報の大半をプレイヤーの脳内に発生する「ナラティブ」に委ねている(死体を担ぎ上げてダンジョンから這々の体で帰還する、親が勝てなかった敵キャラを子が圧倒するなど)。

 それは大作ゲームの志向する映画的な(もしくは、インタラクティブな映像体験としての)シナリオとその享受に比べるとある種の退化なのかもしれないし、安易にナラティブを持ち上げることによってゲームとシナリオの折り合いに関する諸問題に背を向けてしまうことにもなるだろう。

 僕からしても『ポケットモンスター』のストーリーとランクマッチ上級者の立場的な乖離や『龍が如く』におけるストーリー進行の逸脱とそれをメタ的なお笑いに変えるプレイヤーの構造(「ってしは…」)などで理解できる。

 また『メタルギアソリッド2』のようにあえて「プレイヤーとプレイヤーキャラクターの動機が一致しない」ことをシナリオ内に組み込んだ重層的なゲームもあるにはある。
 しかし、その構造的にプレイヤーは己の手でコントローラを握りながらもゲーム(シナリオ)の手のひらの上で踊らされているという感が強くなり、その自由度の低下とともにゲームクリアへの求心力もまた下がる印象を覚える。

 他にもSTGの歴史を紐解けば、ナラティブゲームの代表例とも目される『ゼビウス』から四半世紀も経たず、それが物語上決死の戦いであればあるほど高難度化でプレイ人口を絞ってしまうことになった。世界観やシナリオというゲームシステム外のところで評価を高く得るのは、リプレイ動画が投稿・配信されるようになってからだ(異論はある)。

https://nico.ms/sm40688549

『注文の多い傭兵たち』は難解で再読が難しいと思っていたが、その難しい語彙や台詞回しを噛み砕いていくごとに、ビデオゲーム史の遺伝子に焦点を当てるような深読みができて興味深い。

(終)

もちろんワードナや朱点童子の討伐は大きな目的なのだが、プレイヤーはその前に小目的である〝殺戮と掠奪〟のサイクルに向き合わなければならず、その時点において、大目的の達成は無期限に引き延ばされる

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