【七峰】なぜおれは梅沢富美男の句集を買いたいか
いらっしゃい。
おれは誰でもなく逆噴射聡一郎文体を摂取すると出てくる人格だ。
ある晩、こたつで寝そべった父としめやかにテレビを見ると梅沢富美男の句集が完成まであと一句に迫っていて「あれは本当に達成できる目標だったのか」と驚いた。
そもそもあのプレバトという番組は人の俳句をエレクトリカルパレードに合わせて大げさなシュレッダーにかけるディレクターの悪意と皇帝浜ちゃんの圧制に支配された格付けのコロセウムであり、ほとんどローマだ。
ここでは俳句と感想の区別もつかないタレントは淘汰され、水彩画のPROが手直しどころか最初から自分の画力で絵描き直す。そうゆう階級格差とその闘争を暴力ではなくボケとツッコミで表現する血と芸術…………それが千年二千年経っても人間にとって飽きることのない娯楽の原理だからこそプレバトは暴力の規制が叫ばれる昨今にもかかわらず意外なほど長命の番組になっていて、梅沢富美男もあと少しで本を出せるところまできている。
つまり「そもそも句集が完成するまで俳句が書けるんだろうか(それまで番組が続くんだろうか)」というステージから「いよいよ今週の俳句で句集が完成するだろうか」というステージへ視聴者をおびき寄せ、完成するにしろしないにしろ次週への期待感を強める法則が完成している。
なぜならば梅沢富美男の句集が完成したら次は千原ジュニアの句集が完成を待っているし、梅沢富美男自身も句集ができたら番組を引退するだのしないだの言って次のシーズンに含みを持たせているからだ。
おれはそんな番組を見ながら「有田と週刊プロレスと」で教わった昭和アメリカンプロレスのある興行を思い出していた。
リック・フレアーというチャンピオンレスラーが、例えば当時の全日本プロレスという団体を代表するジャンボ鶴田というレスラーとチャンピオンベルトをかけて闘う。
その試合は三本先取で、まず一本目を若々しい挑戦者であるジャンボ鶴田が取る。
二本目が始まって、観客のボルテージは「もしかしたら鶴田が勝つかも!」と盛り上がる。だが二本目はリック・フレアーが取る。
いよいよ三本目となって、「鶴田勝て!」と観客のボルテージは最高潮に達する……が、最後の最後で両者がリングアウトして、引き分ける。この場合チャンピオンがルール上有利なため王座は防衛となり、観客はフラフラになって退場していくリック・フレアーの背中を見ながら「あと少しで勝てたのに!」「鶴田、次こそは勝ってくれ!」と思いながら帰ることになる。
だいたいこの流れと似たような試合をリック・フレアーはアメリカ全土でやっており、その度に各地を熱狂させたという。今ほど市民が狭量なタイムパフォーマンスを必要とせず、また世界中にFACTを伝えるメディアの少なかった時代の話である。
おれはただ話の途中で自分の好きなプロレス論を差し挟みたかったわけではない。つまり梅沢富美男の句集完成という喜びのピークと、団体の代表レスラーがチャンピオンベルトを戴冠する喜びのピークとは構造的に似ているということだ。
それが難行だからこそ、達成までのちょっとの失敗にもたえられる……これはギャンブルで負けの込んだ者が損失を取り戻すべく更に大金をつぎ込んでしまう心理曲線と一致していることが完全に証明されている。つまり人間が理性や真の男の魂でしか克服しえない、脳の一番ふるいところに手をつっこむマインドハックなのだ。
プレバトってそういう番組なんだなと思いながら、おれはふと梅沢富美男の句集が欲しくなった。そうだとしても……だ。
おれは句集や詩集をふだん読まないし、それらをもとに小説を書くつもりなども毛頭ない。
だが梅沢富美男が毎週シュレッダーエレクトリカルパレードの重圧に耐えながら自分の句を詠んでいた姿や、夏井先生との丁々発止とかを月に一、二回は父と見ていて、その血と汗と涙の結晶を手に入れること、いつか番組が終わった後もその記憶を留めるものとして句集を手元に残しておくことに、趣きと意義を強く感じたのだ。
おれとて梅沢富美男のことをテレビで見たままにしか知らない。夢芝居を延々と当て擦られる程度にしか認知度の無かった時代を乗り越えて、司会業などしていないのに嫌いな司会者ランキングに上がってくるという伝説を残した。おれは梅沢富美男のそうした時代に求められた悪党性を高く評価しており、ああいう上から目線で他人に指図する昭和のジジイが元気でいることが、イワシめいて無軌道な群れを成す現代人に対する反抗の握り拳であると信じている。
(終)
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