見出し画像

観劇日記 #8 青年団『S高原から』

2022年4月15日 青年団 『S高原から』@こまばアゴラ劇場

演劇を観る時はだいたい、最初の10分くらいはその舞台に出てくる人の喋り方とか世界観に慣れる時間が僕にはある。フィクションの世界に身を沈めていく時間。たとえば「只今かえりました。あら先生!おかえりになる所ですか。」「ええ…残念ですね。」「あら…どうかなすった?」「とんでもない、…この通り元気ですよ。」みたいな台詞、簡単に言えば古い言葉で書かれた戯曲の劇はその時間が長くなる事もある。自分の日常とあんまり差がなかったり、逆に「いやこれはどういう喋り方なんだ?」みたいになる変わった舞台だとそういう時間がほとんど無かったりもする。青年団は主宰の平田オリザさんが「演劇でも日常と同じように話すにはどうすればいいのか」ということを実践している劇団で、「現代口語演劇」とも言ったりする。つまりさっきの話で言えば、作品の世界観に慣れる時間が必要ないようになってる、ということ。結果から言えば、「現代口語演劇」といってもこの「現代口語」は30年前くらいの「現代」(*初演が1981年)で僕の感覚ではそんなに日常そのままって感じではなかった。だから30年でも言葉ってこんな変わるのかって感じたし、きっとこれからもっとそのスピードは上がるんだろうと思う。言葉ってホント厄介だ。

でも、喋り方とは違う理由で今回の観劇で「慣れる時間」は必要なかった。その理由は作品の始まり方にある。僕は開場してから10分後くらいに劇場に入って、開演まで20分あったんだけど、既に2人の俳優が舞台上にいて、しかも寝そべって本を読むっていう、明らかな演技をしてる。しかも2人はたまに喋るし、2人以外の人も通り過ぎたりする。僕が席に座る前から舞台には確実に現実とは別の世界が作られてあって、いつもなら席で劇が始まるのを待つはずなのに、まるで舞台が僕が来るのを待ってたみたいじゃないか。しかもちょっとした前説があってドアが閉まると、そのまま本編が自然と始まって、1時間45分の上演が終わって照明が落ちるまで時間が飛んだり、場所が変わったりしない。そこまで現実をそのまま切り取ったみたいな物を舞台に乗せて、切れ間なく世界を立ち上がらせられる力、それを作品として観させられるということの凄さ。やっぱり青年団についていくら勉強していても、生で観て初めて喰らう説得力がありました。洗練されている。

物語は高原の上の医療施設、特に長い療養が必要でそのまま亡くなるかもしれない患者さんを専門とする、家族や友人を含めて滞在することを前提とした施設らしい。人々の話題にも死に関することが度々出てくる。自分達に迫ってくる死を冗談ーにして笑うシーンもあって、そういうのってあまり見慣れない光景だった。主人公ぽい男の患者とその恋人いて、余命宣告について話をしてたシーンが好きだった。

自分が明日死ぬことを知らなかったら、知らないことを嫌だと思うことも無い。

でもやっぱり自分がいつ死ぬかは気になる。

でも、自分が明日彼女に振られるとして、それを知っていたら知らないよりマシだと思えるだろうか。

知ろうとしても、していなくても、明日死ぬかもしれない。

知っていても、知らなくても明日彼女に振られるかもしれない。

じゃあ友達が明日死ぬとして、それを自分だけが知っていたら、自分は教えてあげたいだろうか。

という風に色々と考えを巡らせた。別に正解があるわけじゃない。でもどういう状況でどういうリアクションが起きるだろうって考えることこそ演劇を豊かにしていくものだと思う。
今作には沢山登場人物がいて、彼らそれぞれのリアクションが粒だってる感じがして、そういうキャラを演じる俳優さん達が本当に豊かな存在として感じられた。

こまばアゴラ劇場で24日までやってるので、興味のある方は是非。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?