そうして眠る

「ここは、眠れない人が集まる酒場なんです。ルールはたった一つ。笑顔になって帰って頂くことです」
 月の形のライトにぼんやりと照らされた木調の壁や天井。大きく開け放たれた扉から、真っ黒の海と本物の月が見える。賑やかな店内に、ざざーん、ざざーんと波の音が届く。
「私」はカウンターの端に一人腰掛け、カウンター越しにマスター、「チャーさん」と話をしている。
 傾けたグラスの中身は、甘いレモネードのお酒。
「笑顔になれなかったらどうするの?」
 私は意地悪な質問をする。チャーさんは、大きな手を顎元にもたげ、鋭い爪で暫しオレンジ色の皮膚を掻きながら、思案していた。
「もしそうなったら、私が渾身のギャグで笑わせますよ!」
 私のグラスが空いた頃、チャーさんは、良いことを思い付いたようにそう言った。
「例えば?」
 私は尚も、意地悪に微笑む。チャーさんは「うっ」と一瞬困った顔をしたが、私の手元のグラスに気付いたチャーさんは新たにお酒を拵えてくれた。
 少しビターなレモンのお酒だ。それと、サービスの生ハムとアボカドのスライス。
 波の音を聴きながら、アボカドを生ハムで巻いて齧る。お酒を一口。背後では、ピンク色の猫がアコースティックギターを情景たっぷりに鳴らしている。まだ知らない誰かの、笑い声が愉快だ。ずっと昔から知っている気もするが、きっと知らない。

 夜へと沈むまでにある、現実との邂逅。きっと走馬灯よりも鮮明なのだろう、ビビットカラーの映像が次々に脳みそを刺してゆく。休まる暇などなく、私はいつも丸まって胸を押さえている。今宵も夜が逃げてゆく。秒針の音に、涙さえ流す。
 上手に夜へと沈めなかった「眠れない人」は、やがて懐かしい景色へと辿り着く。時には海沿いの酒場、静かな映画館、竹藪の中のペンション。どこも記憶にない。
 眠れない誰かが作り出した優しい夜だ。

「また来てください」
「今度来た時には渾身のギャグ、聞ける?」
「う〜ん、きっと必要ないですよ」
「え?」
「代わりに、美味しいお酒とおつまみのレシピ、考えておきますね」
 店の照明を背中に受け、波の打ち寄せる際に立った私は、どうやら笑っているようだ。

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