見出し画像

(ネタバレ含)佐々木インマイマインについて


 学校で全裸になるやつは馬鹿だ。
これは間違いない、誰がどう考えてもバカだ。今やればtiktokに名を刻み学校から名が消えるのがオチだろう。でもまぁ、全裸とまではいかなくてもそんぐらいの馬鹿なことをやっているのを見たことがあるだろう。僕らは指をさしてピクリとも笑わず冷たい視線を馬鹿に向けるだろう。
「やっている側」は知らんが、こちらからしたら悪ノリでしかない。
では、「やってる側」はどうなんだろう。
 

たぶん絶対馬鹿なだけじゃない

物語の前半は佐々木の思い出話や佐々木との高校での日々が描かれる。
特に佐々木が「佐々木!佐々木!佐々木!」とコールされて脱ぐシーンは印象的だしなんなら全裸のまま廊下で走り出すのだから彼の破天荒さは充分伝わる。しかし佐々木の父親が死ぬシーンから後半となり負の雰囲気が漏れ出す。映画を見ればわかるのだが、初詣で友人のことをすっかりと忘れて父親を追いかける佐々木。このシーンで佐々木にも葛藤があるんだとわかる。
おそらく佐々木にとってかけがえのない存在であった父親の死。
でもその日佐々木は学校に来た。気丈にふるまって彼はいつもの佐々木コールを友人たちに要求する。気まずさからかもちろん拒否される。

あー、そうだよな佐々木。俺はわかる、めちゃくちゃわかるよ
「苦しんでいない人なんていない」という言葉がある。
もちろん自分以外に苦しい人がいるというのは承知してる。
でも今の時代、あんだけインスタでキラキラしてるやつらも葛藤があるのだろうかと疑いざるを得ない。
ある。あるんじゃないだろうか。いいねをもらえば気はまぎれるし、友人との楽しい時間もLINEを開けばいつでも過ごせる。でもそれはごまかしてるだけで「孤独」の時間の時に考えることは存在する。誰にしも
例えばたばこを吸ってダサいダンスを踊るヤンキー、彼らにも孤独の時間があってその時に「ダサいダンスを踊ろう」と決めた。正しいかどうかじゃない。全裸の佐々木が正しいわけがない。
たいていの学生は気づいていないふりをしているけど、何者かになろうという青い欲望と何者にも慣れない惨めさが混ざり合った時間を学生は過ごしている。そんなものをぶっ飛ばす!正しさなんていらいない、そんなものをぶっ飛ばすためだけのくだらない時間が青春なんだと全裸の佐々木は訴えかけているんだ。
この「ぶっ飛ばす!」というのを表現したものは多い。辛いことがあったとき家で聞く爆音のパンクロックとか、岡崎体育の「なにやってもあかんわ」とかそういうのじゃないだろうか。
たしかにそれはさっきいった「ごまかし」なのかもしれない。
だが考え方によっては佐々木は今の僕らにとってのインスタと並ぶような、それぐらい大きな存在になっていたのだともいえる。だから佐々木はみんなの記憶に残っている。
佐々木の「おまらが俺を脱がせていたんだよ」というセリフは、
「俺がお前らの葛藤を誤魔化してあげてたんだろ、俺は何者かに慣れてたんじゃないのか」という気持ちの表れだと僕はとらえている。
だから佐々木は気まずい空気の中でもまた吹き飛ばそうと佐々木コールを要求した。



佐々木は過ぎた時間に負けたのか?

負けてない。僕は強くいいたい。
こういう形の青春映画にありがちなのは青春の日々と辛い今の対比だ。
もちろんこの映画のテーマもそうなのだ。主人公の雄二はその言葉通りの描かれた方をしている。じゃぁ、佐々木は、青春の日々の佐々木からすっかり現実を見て丸くなった佐々木になってしまったのだろうか。
井口理と殴り合う佐々木、ナンパにならないようにナンパする佐々木、
そして学生時代かすりもしなかったバッティングセンターで、ホームラン王になっている佐々木。あいつはあいつのままだったのだ。
「変わってないね」という言葉が大人にとってはほめ言葉で使われる。
「若かったなぁあの頃は」というセリフを言うためだけに同窓会を開く人がほとんどだ。でも太陽は何年たっても光り続けている。佐々木はずっと「佐々木」であり続けた。青春でありつづけた。

僕も同窓会で「変わってないね」と言われたい。
「若かったなあの頃は」なんていいたくない、中学生の頃「頭おかしいね」って冗談交じりに言われてたんだから大人になっても頭おかしくありたい。誰しもがそう思いながら「大人」という言葉にむしばまれていってしまう。いつかは必死に覚えた解の公式すらも忘れてしまう。

佐々木は死んだけど死んでいない

ラストシーン、棺の中から佐々木が飛び出しあの頃のように「佐々木!佐々木!佐々木!」と裸で踊る。「なんだ生き返ったのか、喜劇じゃないか。まぁいいや」「せっかくきれいに終われたのに、急に陳腐になったなくだらない」と思った人、それは違うだろ。
佐々木は死んでいる。ではあのラストシーンはなんなのか。
ここでタイトルの「佐々木、イン、マイマイン」につながってくる。
佐々木は心の中にいるのだ。彼が死のうと青春が終わろうと佐々木は全裸で踊るのだ。青春を舐めるなよ、とそんな簡単に色あせるものかとこちらをにらんでくるかのような勢いをあのシーンには感じさせる。
佐々木がカラオケでナンパもどきをして知り合った苗村が霊柩車のクラクションを鳴らす。これは佐々木コールをかき消すためだろう。彼女は佐々木の死を受け入れるために必死にクラクションを鳴らす。でもそれにすらも屈しない、映画はエンディングロールに入るまでどんどんと佐々木コールは大きくなっていく。
だから僕はこの終わり方が大好きだ。青春の強さをこんなにも感じさせてくれていいのかと。
佐々木!佐々木!佐々木!佐々木!佐々木!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?