皿の上から望む夢 #note文芸部
こんにちは、はじめまして。作家の神谷京介です。
始まったばかりの #note文芸部 を覗いてくださり、ありがとうございます。
普段はnoteのこちらのアカウントで、淡々と小説をUPしています。長いのから短いのまで、割と色々揃ってます。たまに日記も書きます。
もう少しだけ身元を明かしておきますと、一応、このnote文芸部の発案者であり、公式キャラクター『まるぶんくん』(note非公式活動の公式キャラ……まぎらわしい)を生み出した人でもあります。
食パンのクリップがあれば描ける手軽さが魅力
なお作家と名乗ってはいますが僕はプロ作家ではなく、執筆活動で生計を立てることはできていません。これからの目標として十分頭にはありますが、いかにそれが自分の力で難しいのかも日々実感しているところです。
さてこちらの記事では、先んじて投稿したnote文芸部の活動内容……とは少し違った話をしてみようと思います。
内容としては、長い長い自己紹介と、この場所での新しい出会いを期待したり不安がったりする、若干情緒不安定な想い。あとは、急に皆様のもとへ現れてびっくりさせてしまったこのnote文芸部を、どんな場所にしていきたいか。
を、1万字くらいで書いてみました(苦笑)
そうです! 僕は普段黙ってるのに、一度話し出すと長くなるんです。
このあとはきっともう数か月は黙っているか、もしくはこれきりです。
初回記事で掲げた、文芸部の目指すひとつの理想。
「自分らしく書き続けたい」を、みんなで続けていく
ここだけ切り取ると、なんだかこうゴールテープの前で全員が一旦立ち止まって、手をつないで……みたいなイメージをされる方もいるかもしれません。
それはまったく違うとも言えるし、厳密に言えば似てるとこはあるかも、とも言えます。
じゃあ結局どういうこと? その問いかけにお答えするため、ひとつひとつ、あなたに伝わるように丁寧に書きました。
どうかあなたのお時間をいただけますか。
ゆっくりと読んでくだされば幸いです。
「読まれない作家」の日常
先に説明したように、僕は作家活動で収入を得ているわけではありません。
それでも作家と名乗る理由は、単なる親切心とおせっかいなのです。
「書くこと」を仕事にしたい人、「書くこと」を通して生きていたい人が、「自分は作家です」と一人でも多く言えるようになればいいなと思う一心で、僕は今日も、だれにそう呼ばれるでもなく「作家です」と名乗ります。
◆
電車がトンネルに入ったそのとき、泥だんごのような顔をした一人の男が窓ガラスに映し出されました。
マスクをつけて、治らない風邪に苦しみ、口を抑えてごほごほと咳込みます。人の塊に押し込められ、鞄にしまってある本を開く気力も体力もなく、だれにも聴こえない声で、こんなもんか、とつぶやいています。
出社し、昨日は急に休んですみませんと同じ部署の人たちに頭を下げます。
それからすぐに週例ミーティングがあり、昨日できなかった業務の埋め合わせをどうするのかと上司に問い詰められます。他の諸々の案件についても、なぜ進んでいない、どうなってるんだと延々なじられました。
時間がありませんでしたと、顔をうつむけたままそう答えました。
それはみんな同じだ、なんとか工面してやれよ、苛立ちの混じった声で上司は言いました。
そのミーティングが終わった直後、上司はそのまた上司に呼ばれ、僕と同じように、あれはどうなったこれはどうなったとなじられていました。上司は僕と違い、すみません、と何度も何度も言いました。部長すみません、その案件は彼がずっと手をつけていなくて、注意します、やらせます、すみません。
いつか小説を書かなくなったとき、僕は彼らのような顔をして、自分より弱い者を探し、押しのけ、平気でその席に居座るのだと思います。
いつか小説を書かなくなったとき、僕はきっと泥だんごのような顔を平気で人前にさらすようになるのだと思います。
電車の中の人は全員、泥だんごの顔でした。
子どものころ、想像で思い描いていた大人の顔と、なにひとつ変わりません。
僕の顔もまた同じ。最もなりたくなかった 大人 の顔をしているように、最近は思えます。
勝手に仮想敵にされた大人の皆様、たまったもんじゃないと思います。
でも、その仮想敵と同じ姿をして自分はこの社会にすり寄っているのです。滑稽ですよね、嘲笑われたって仕方がない。
実際に聞いたことがあるかは言えないけど、何度も何度も、たくさんの嘲笑を浴びてきた気がするんです。
自分の作品を書くことで生きていたい。
その思いで今日までやってきましたが、どうもうまくいきません。
いつしか自分よりも周りのほうを気にするようになりました。
周りから取り残され、忘れ去られていくことはある意味で安心を与えてくれます。僕の予想する通りの未来が、ただただ再現されていくからです。
嘲笑を浴びているふりをするのも、それが予想通りの未来だからです。
眩い光を放ちながら自分の道を進んでいく人、そして彼らは僕の名前すら知らないはずで、なにかの拍子に僕のTwitterのアイコンなんかを見かけたりして、嘲笑している。よくこんな駄文で作家なんて名乗れるよなって、嘲笑してる。
本当は「くだらない妄想しちゃってさ」って、吹き飛ばしてくれるような人を待ってるはずなのに、こころは反対側を向き、安心できるほう、今までと同じだったほうを選び取ってしまう。
僕はいつか小説を書けなくなります。
たくさんの書きたかった作品を残したまま、書けずに終わり、そうしてやっと僕は大人の仲間入りを果たすのかもしれない。
そんなくだらない想像をしながら、夜ごと世界との隔たりを感じ、いっそ泣けるくらいがいいのに、それもできずにただ背中を丸めて。
夜ごと、いつか小説を書けなくなる日に思いを馳せます。
どんな作品でもいいから認められたい、そう思ってはいなくて。
だれに望まれていなくとも、僕は自分が書きたい作品しか書けない。
たくさんの人に、そして届くべき人に読まれたい。その一方で、僕の作品を安易に理解した気にならないで欲しいとも思うのです。
10年の孤独と回想癖、永遠
作家としての資質を問われかねないようなことをひとつ告白すると、僕はこれまで生きてきた中で、だれかの言葉に救われたとか、だれかの言葉でこの道を行くことに決めたとか、そういう人間らしい体験がまったくありません。
もしくは、あったとしても忘れています。
かわりに僕が覚えているのは、幼年期に見た、何気ない景色の記録です。
たとえば、まだ若かった母がベランダでタバコを吸っている景色や、まだ若かった父がガムを噛みながら高速道路を車で走らせている景色。
デパートで迷子になり、知らない女性の手を握ってしまったときの景色。
引っ越し作業のとき、冷蔵庫の下からずっと探していたクリアレッドのBB弾を見つけたときの景色。
母の病室のベッドのそばに置いてあった女性週刊誌とクロスワードの雑誌。
祖父の家の草むしりを手伝ったときの景色、そのあと刈り取った雑草をドラム缶に入れて燃やしたときの匂い、立ち上る白い煙。
ブラウン管テレビとビデオデッキ、プレイステーションとカバーの取れた攻略本、テーブルに置かれた灰皿、キッチンに転がる缶ビール。
端が黄色く変色したアルバム、僕が生まれる前に撮影された父と母の写真。
それぞれの場面自体に意味を見出したことはありません。ただただ、回想することそのものが好きでした。
僕の回想癖は、10代のころから始まりました。
夜、布団の中で。授業中、机に刻まれた木目を眺めながら。あるいは文章に残してみようとノートを広げて。
僕以外のみんなが一様に「今、ここで」を楽しみ、悲しみ、思い悩んでいるように見えたその隣で。
一人なにも恰好がつかず、孤独を気取ることもできず。真ん中よりちょっと前の席で肩をすぼめて、回想していました。
(余談です。窓際の席だったら一人ぼっちでも恰好がつくのに……と今更思い返していたら、またひとつ記憶が蘇りました。全員で話し合って席を決めようみたいな試みが一度あったんです、たしか。当然ながら僕に発言権があるはずもなく、ぼーっとしている間に『真ん中よりちょっと前の席』になり、ますます恰好がつかなくなってしまいました)
あまりに虐げられた、あまりに無味乾燥な、あまりにだれの目にも映らなく、必要とされない「今、ここで」が、とてもとても辛く、そして退屈で。
だからこそ、必死で回想を続けていたのかもしれません。
自分と世界がたしかにつながっていた、あの幼年期の景色の記憶だけを見ていたかったのです。
そのうち回想癖は歪みに歪み続け、とうとう一周曲がり切ったところで、ある日突然、小説を書こうと思い至りました。
まばらな記憶の先にあるもの。
回想をしている最中に感じる、過ぎた時間と手をつなげる感覚、その先に。
永遠 と呼べるようななにかが、ほんの一瞬だけ光り、そして消えたのです。
その日から僕は 永遠 について、小説を通して書き続け、いつか解き明かしてみたい。いつかそれがなんなのかを知りたい、そう考えるようになりました。
今でも、僕が小説を書く意味はそれなんです。
プロになりたいとか、有名な賞を取りたいとかじゃなく、 永遠 を探し続けていたいんです。
小説を書いていることはだれにも打ち明けませんでした。日常は相変わらずそこにあって、けしてすべてが満たされたとは言えないにせよ、僕は僕の中でだけ、世界とつながれたあの日にもう一度帰ってもいいのだと、免罪符をもらったような気がしました。その気持ちのまま、僕は毎日本を読み続け、そして書き続けました。
しかし世界ともう一度手を取ってつながるのは、僕自身ではありませんでした。僕の小説の登場人物である、彼ら/彼女たちでした。
僕は一度すべてを諦めて死んだのかもしれません。
実際どうだったか、記憶は定かではないにせよ。
起き上がったとき、そこに彼――神谷京介 がいました。
(実はペンネームを変えたことがありません。小説を書き始めてから僕は10年ずっと『神谷京介』でした)
僕は彼に、彼の小説に、たくさんの記憶を託すことに決めました。
きみの好きなように書いて欲しい、そう言ったような気がします。
そうして僕たちはあの日、バトンタッチを交わしたのです。
10年後の現在、当時とは比較にならないほど数多くの「今、ここで」が、どんな場所にも溢れ返っています。
自分の価値観に沿う、ときには自分を変えてくれる「今、ここで」をたくさんの人が探しています。
「今、ここで」には、はっきりと主張があり、理路整然としていて、それを飲み込めば自分にどんな効能があるのかも明瞭に説明してくれます。
ほんの少し口を軽くしても良いのなら――「今、ここで」、自分がなにを思い、なにを感じ、なにを伝えるのかが最も大事なのだ、と。
そんな風に、世の中の流れが正しく清く整えられていくのを見るのが、最近はちょっぴり息苦しいな、なんて。
僕の小説は長いあいだ、ほとんどだれにも読まれないで10年の時間を過ごしました。
そのことを実は誇りに思っています。
この世で一番優れた文芸作品があるとすれば、それはだれにも読まれない物語なのだと僕は思います。
怯えながら抱えていたたくさんの景色の記憶は、小説として言葉を連ね、やがてたくさんの景色の記録に変わりました。
書くことは、なにより記録することでした。
できあがった形がなんであれ、僕はそのすべてを愛おしく感じていました。
自分じゃないだれかが、世界から自分を守ってくれるとして。
ずっとずっと、僕は自分の小説に守られてきました。
この記事を書くにあたって古いUSBを引っ張り出し、その中に入っていた10年前の小説や、当時の日記(!)などを読みあさりました。
そこにはやはり自分のことを「小説を書く神谷京介」だと言ってはばからない、非常に口が悪く卑屈で、それでいてだれよりも一途に世界と向き合う一人の少年がいました。
でも僕、世界一の善人になってあれを書いたつもりだったんだけどな。
みんなみんな、形を変えることなく、「あの場所で待って」くれていました。
僕には遺作として書き残したい小説があり、そのタイトルも実は決まっています。
今や恥ずかしくて口に出せない(10年前の僕を借りてやっと言えた) 永遠 がなんであるかを、何十年も問い続けた先の答えを、人生最後の時間を惜しみなく使い、書き切りたいのです。
そして、その作品をはじめとした自作の原稿をすべて箱の中に詰めて、故郷の山の土の中に埋めてしまう。
その箱を100年後、あるいは1,000年後にだれかが見つけ、手に取り、読んでくれることを願って。
想像じゃないですよ、本気で思っていたんです。
いえ、今でもそうです。
それまで、僕の作品はずっとずっと、だれにも読まれないでいようとさえ、思っていたんです。
でも結局は、できなかった。
書くことで生きていく、そうして生きていかなきゃ、その想いに耐え切れずnoteを始めてしまい、執筆と投稿を続けました。
10年後の僕はとうとう、小説の中の彼ら/彼女たちを、見知らぬだれかの皿の上に乗せてしまったのです。
作品は、皿の上に乗せられて
読まれる場に放った時点で、作品は皿の上に乗せられ、選別され、自分ではないだれかのもとにさらされます。良いと言ってくれるときもあればそうでないときもあります。
結局だれにも読まれなかった、それだって立派な選別なのかもしれません。だれかが「読む必要がない」と判断した結果なのだから。
彼ら/彼女たちが生きてきた記録、そして自分自身の景色の記録である僕の作品たちは 永遠 の残滓を描写した唯一無二の物語であると自負していました。
でも違ったんです。
テーブルから皿を選別する側の人にとっては、そんな伝わらぬ想いなど関係ありませんよね。
取るに足らない、よくわからない書き物だと思われ、さっさと取り下げられることのほうが多かった。
「あの場所で待って」くれていた作品が、「今、ここで」はっきりと選別され、だれかのタイムラインを汚し、だれかの「今、ここで」を奪い、邪魔をするなと取り下げられる。
その事実が苦しかった。
僕は今でも、すべてがもとどおりになるのなら、そんな魔法があるなら、noteを知らなかったあのころにもどるのかもしれません。
僕と、100年後の子どもたちが読むためだけの小説を書いていた、あのころに。
僕たちはなぜ、それでも
読まれたいと思うのでしょうか?
と、そう考えたとき、僕がいつも思うことがあって。
期待と恐れを抱きながら、自分が懸命に書いた大切な作品を世に放つ。
その一点でのみ、僕たちは想いを同じくしているのではないでしょうか。
作風も価値観も、読まれる人やその数も、なにもかもが違う僕たちなのに、その一点でのみ、想いを同じくした瞬間があったのではないでしょうか。
あなたの作品を皿の上に乗せて味見したり、口をつけぬまま皿を取り下げたりする人たちはたくさんいるのかもしれません。
だけど僕は「皿の上に乗せて味見をする」読者ではなく、あなたと同じく一人の作家です。
作家として、いえ、皿の上の友人の一人として、おそらくなんの疑いもなく、同じ一人の作家であるあなたのこころにふれたくて、あなたの作品を読んでいます。
作品を書き、noteという同じプラットフォームで、同じテーブルに乗せられる。
その一点でのみ夢を同じくして、夢が交差するその一瞬限り、僕たちは友人になれたのだと、そう思うことをゆるしてくれますか?
ここから先は、皿の上の友人であるあなたと僕でやりたいことを、とりとめなく書きました。
ぜんぶを叶えなきゃと思ってはいません。ただ読んでもらいたいのです。
読み終えたとき、きっと僕たちは何食わぬ顔で他人にもどれるはずです。
作家らしく、またお互いに、孤独へと。
神谷京介の #note文芸部でやりたいこと
「皿の上の友人」に会いたい
さて唐突ではあるけど、今までに何度も何度も読み返している、大好きな作品を紹介します。
小説やエッセイを綴る作家、moonさんの『noteって修学旅行の夜の布団みたいだ』
(さらりと読める短さなので、ぜひ一読してからこちらにもどってきてくださいね)
twitterもInstagramに書き込む文章も、"あの人"が書くから読む、"私"が書くから読んでくれるだけで、各人の普段話すおしゃべりの延長線上のメッセージになってしまう。
でも、ここでは、書き手のプロフィールや関係性なんて全く知らずに、純粋に書かれたものに共感して、胸を打たれて、そして好きだなって思う。思ってもらえる。
僕がnoteを始めて間もないころ。
知らないだれかの作品と、ほとんどなんの手垢もついていない状態で、何気なく出会ってしまう驚きをたくさん経験しました。
まず「人」との出会いではなく「作品」との出会いありき。
こちらの作品もまさにそうでした。
書いた人がだれであるか。
たくさん読まれているかそうでないか。
そんなことは関係なく、ただの偶然であるはずなのに、そして選び取ったのは自分の意思であるはずなのに、そうじゃないと否定したくなるほど、自分のこころにぴたりと沁み入る出会いがいくつもありました。
ひとつの作品が気になったことで、同じ人の他のnoteも読んでいくうちに、あぁこの人は、この作家はこういう人なんだ……そうやってだんだんと、ゆっくり時間をかけて「顔」が見えていく。ときには最初読んだものと全然違った「顔」を覗かせてくれたりもする。
その顔はもしかすると、日常生活で見せることのない「仮面」なのかもしれないけれど。
修学旅行の夜、みんなで布団に入って喋るおしゃべりでは何故だか秘密を打ち明けてしまう。
ハロウィンで仮装をしているときは、何故だかいつもよりも開放的になってしまう。
noteにだけわたしの閉じ込めてきた物語や思いを載せられるのは、それに似ているなって思います。
最近は「出会い」が少なくなってきたように思います(また口を軽くしちゃった)。
それはもちろん僕のnoteとの付き合い方が変わったからというだけだし、既にたくさんの人に出会ってしまったからかもしれない。
皮肉にも今、noteの中の「あの人が書くから読んで」いる自分がいるし、そんな読まれ方をしたいと願う自分もいる。
あのころのシンプルな気持ちにもどりたい。
わがままだけど、たしかにそう考えたりもして。
まだこの場所で、あなたとあなたの作品に会いたい。
僕は頭があまり良くないので、他のプラットフォームと比べてUIがどうとか、UXがどうとか、PV数がどうとか、具体的にnoteのどこが優れていてどこか劣っているかはよくわかりません。
それでもやはり「note」を続けていたい。
なぜなら、この場所には僕の友人がいると、勝手に思い込んでいるからです。
たとえ一度も言葉を交わしたことがなくても。
たとえあなたが僕を知らなくても。
同じテーブルに置かれた、一瞬の、皿の上の友人であったのだと。
一度限りでもいい、そう伝えたいのです。
……とはいえ、「皿の上の友人」の一言だけではちょっとびっくりされるかもしれないので、もう少し言葉を重ねてみますね。
あなたの言葉は美しい。
たとえだれにも選ばれなくても、もちろん僕なんかに選ばれなくても。
あなたの箱の中に収めたその言葉は、それがなんであれ、たとえ呼吸を止めたとしても、言葉である以上、美しい。
もう一度書きますね。
「この世で一番優れた文芸作品があるとすれば、それはだれにも読まれない物語なのだと僕は思います」
だから、あなたの言葉は美しい。
と、僕はあなたに伝えたいんだけど。
それが叶うことなんて、あるのかな。
作家であることを大切にしてほしい
「今、ここで」が溢れ返り、それぞれが「今、ここで」思っていることを発信できる時代に、取り残されてしまった物書き崩れの一人が僕です。
僕はなにか世間に対して伝えたい怒りも悲しみもありませんし、だれかのこころを穏やかにできる人望も言葉も持ち合わせていません。
それでも自分の作品を書いていたいから、だれに選ばれなくとも書き、だれに呼ばれなくとも作家と名乗り続けます。
どうかあなたもあなたのまま、望むとおりの人に選ばれ、読まれ、自分が書きたい作品を書く作家として、その手とこころが求めるかぎり、書き続けて欲しいのです。
それが最も難しく、身も蓋もなく、書き続ける限り正解は出ない、負け続けることだってある、はい、承知してます。それでもどうしてもあなたに書き続けて欲しい。
そのためにできることってなんだろう?
note文芸部を作るきっかけは、ただひとつ、その想いでした。
同時に「じゃあなにをして、どうすればいいのか」という結論にはいまだに至っていませんし、先にも書いた通り正解はないのでしょう。打つ手がまったくあなたの琴線にふれないどころか拒絶を覚えることだってあるかもしれません。
だけどもしも僕たちが必死で考えついた「なにか」が、あなたが書き続けるための、その夢の一助になるのなら。
そのための場所でありたいし、なんなら踏み台……になるほどの活動ではないにせよ、そんな風にだって文芸部を使ってもらえれば、なんて、珍しく前向きな想像をします。
どうですか? とてつもないおせっかいだと思いませんか?
自分の夢ひとつ満足に叶えられないのに、恐れ多くもあなたに「書き続けて欲しい」だなんてどの口が……って、これもただの想像?
僕はあなたの夢を邪魔する敵でもないし、あなたを選び取る客でもない。まして、ライバルなんて言える力量では到底ない。
皿の上の友人として、対等の立場でそう願うだけなのに。
そして、そしてね。
選ばれた人たちしか生き残れない世界なんて、やっぱり僕は嫌だ。
テーブルごとひっくり返そうよ。
皿の上でおとなしくしてるだけじゃないんだって、雲の上のあいつらに言ってやろうよ。
このまま、このおかしな世界のままは、絶対に嫌だ。
あなたの本を作りたい
もしも「100年後の箱」の中に入れる作品が、原稿ではなく正真正銘の 本 であるならば。
実は僕、公募の文芸賞のようなものには数度応募したことがあるのですがご承知の通りかすりもしませんでした。なので商業出版の世界はきっと縁がないのだろうなと、よく知りもしないのに諦めています。
やっぱり、自分の書くべき作品しか書けないので。自分の作品は塵ひとつ曲げたくないし、知った風に干渉されたくないので。
そしてそんなわがままの夢を叶えるには、自分で作るしかないし、きっとそのほうが楽しいだろうなとも思います。
皿の上から作品を取り上げて、あなたの望むとおりの本を作る。
届くべき人に届ける。
それを一緒にできたらなって思うんです。
長いかもしれない、僕たちの作家としての道の途中。少し浮かれた夢を見るつもりで、あなたと一緒に本を作りたい。あなたの本を作りたい。
まだ文芸部を作るなんて考えてもいなかったころ、ふっと浮かんできたんです。
自分の夢のこと、自分の作家としてのこれからのなんにも先の見えない道のことを、ぼんやり儚んでいたら。
なぜだか自分じゃなく、皿の上の友人であるあなたの本を作りたい、どうやら僕はそう思っているらしい、と。
なぜ僕は、自分だって一冊も自分の本を持っているわけでもなく、他人の本を作りたいんだろう?
もしもそれが出来上がったとして、noteではないかもしれないにせよ、それはまた別の皿の上に乗せられ、選ばれたり選ばれなかったりするはずなのに。読まれる保証もなく、きっとそれでも世界はなんにも変わらないはずなのに。
今でも答えが出ないまま、僕はなぜか自分じゃなく「あなたの本を作りたい」という、捉えようによってはちょっと奇妙で偏執的な夢を抱いているわけですが、もしかするとなんだろう、作っている途中の景色? それを想像しているのかもしれない。
まだどんな皿にも乗せられていない、美しい言葉でできた作品を集めて、いつか箱に入れるための 本 ができていく過程って、すごく美しくて、透き通る景色なんじゃないかなって。
もちろん、あなたにとっても。
そばにいる、あるいは遠くにいるかもしれない僕にとっても。
作ってる途中は、夢を見てる途中は、きっととても楽しくて、まんざらでもない景色のはずなんだ。
僕はそれを証明したいなんて、自分で確かめたいなんて、きっと思っている。
皿の上の友人であるあなたへ、最後に
長くなり、そして相変わらず自分のことばかりで、本当にごめんなさい。初めて知った人にはびっくりさせてしまい、こちらもごめんなさい。
こんなに饒舌なのはきっと今日が最後です。
noteを始めてから、望むように読まれない苦しみに何度も何度も打ちひしがれ、叩きつけられてきました。
僕はけして叩かれてもくじけない人間ではなく、もうそろそろ限界が来ているなと感じています。
生まれたてのこの活動は、きっと僕がnoteでできることの最後のひとつになると思います。
皿の上の友人であるあなたへ。
僕があなたのためにできることは、箒で掃き散らすように雑多な夢を語ることと、夢が叶わなかったこれまでを恨み、そして慈しむことだけでした。
僕はなんにも語らない一人ぼっちの作家にもどります。
人で溢れ返る「今、ここで」の世界から取り残され、一人ぼっちにもどり、それでももう少しは書き続けていくのかもしれません。noteにいるかどうかは別として。
僕が作家でいられるうちに、いつかあなたと出会えるなら。
2019.11.13 神谷 京介
部誌作るよー!!