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小ホラ 第40話


「うわっ、やっぱいるよっ。気持ち悪ぃっ」
 助手席のマコトがわめく。きょうで四日目だ。
 春休み。家でゲームばかりしているよりは、とヨウコは毎日買い物に付き合わせているが、行き帰りの道に死んだ猫がいると言って騒ぐ。道沿いにある民家の門前に横になっているらしい。
 らしいというのは運転中で目視できていないからだ。
 なので、一日目のヨウコの反応は「えー。うそぉ」、で通り過ぎた。
 二日目は「見間違いでしょ」
 三日目は「寝てるだけでしょ」
 だが、マコトは絶対死んでいるという。いくら何でも死んだ猫がいれば、住人が放っておくはずがない。
 さすがにきょうは確かめたくなった。
「ちょっと見てみる?」
 ヨウコは少し離れた路肩に車を止め、興味津々のマコトと一緒に猫のいる門の前まで行った。
 茶虎の猫が横たわっている。マコトの言った通り本当に死んでいた。その証拠に長々と伸びた身体のあちこちが腐って陥没している。口からべろりと舌が飛び出し、薄く開いた目にもぞもぞと蛆が集っていた。
 なぜ何日も放っているのだろう。ここの住人は何をしているのだろう。
 ヨウコは腐臭を嗅がないよう鼻を押さえ、門の中を窺った。
 たまに見かけるエプロン姿の初老の女性を思い浮かべ、この猫と同じようなことが屋内で起きているのではと心配になった。
 通報したほうがいいのだろうか? でも、事情もはっきりしないのに警察や救急に連絡なんてできないよね――
 隣近所に訊ねたくても周囲はみな空き家のようだ。
 そう言えば、この辺りは道路拡張工事を予定されている地域だ。すでに立ち退きが始まっているのだろう。
 それを渋る一軒があると、近隣で有名なスピーカーおばさんが教えてくれたことも思い出す。きっと立退料の値上げ交渉してるのよ、とひそひそ嗤っていたが――
 ああ、もう立ち退いたってことか。
 ヨウコは合点がいって、一人うなずいた
 どうりで猫が死んでいても片づけないわけだわ――でもこの家、空き家っぽくないわね――
 アプローチには花の咲き誇る植木鉢が並び、玄関先に置かれたじょうろや庭箒、塵取りはまだまだ十分使えそうで、放置していったにしてはちょっとおかしい。
 レトロな硝子ガラス引き戸や窓の向こうにも下駄箱や箪笥など家財道具の影が映っている。
「ね、ママ。この猫死んでないよ」
 門の中を覗き込んでいたヨウコの手をマコトが引っ張る。
「なに言ってるの? 死んでるに決まってるでしょ。こんなになってんだから」
 だが、マコトはしゃがみ込み、指で猫の胴を突いた。
「汚いからやめて。ばい菌がつくわ」
「あ、ほら見て、ママ」
 明るい声に猫を見ると、確かに薄い縞模様の腹が息をするように上下に動いている。
「や、やだ。それって中で虫が蠢いているだけよ」
「違うよ。生きてるんだよ。早くお医者さんに連れてってあげよう」
 そう言って猫を抱き上げようとする。
「ちょ、やめなさい」
 ヨウコが止めようとした時、「いたっ」とマコトが叫んだ。猫に手を引っ掻かれていた。
 しゃあああああああ。
 猫が頭をもたげて威嚇する。牙の並ぶ口は粘液が糸を引き、へこんだ目からは蛆虫がこぼれ落ちた。
「ほ、本当に生きてるの?」
 ヨウコは驚いたが、マコトの心配が先だ。
 手を取り、傷を確かめる。甲についた爪の跡からは血が滲み出て、周囲が見る見る赤黒く腫れてくる。
「痛いよ、ママ」 
「やだ、何? なんなの、これ」
 どうすればいいのかわからず、とりあえず上着のポケットからハンカチを出してマコトの手を包み込んだ。
 早く病院に連れて行かなければ。
 しゃあああ。
 猫が再び威嚇し、腐って抜け落ちた毛を地面にへばりつかせ、糸の引いた身体を起こそうとしている。
 一体どうなってるのこの猫――生きてるの? 死んでるの? ああ、もうっ、そんなことどうでもいい。早く車に戻らなきゃ。
 マコトは立っていたが、今にも倒れそうにぐらぐらと揺れている。肩まで腫れ上がってきた赤黒い皮膚が襟ぐりから見え、そこから青や赤の幾本もの血管の筋が浮き上がって、肩から首、首から顔に到達しようとしていた。
 どうしよう、どうしよう。そうだ。きゅ、救急車。
 ヨウコはスマホを取り出そうとポケットを探っていたが、突然、ばんっと大きな音がして、思わず玄関のほうへ顔を向けた。
 引き戸の向こう側に硝子をばんっばんっと叩く人影が映っている。
 両手を上げて激しく叩く異様な影にヨウコは電話のことなど忘れてしまった。
 音を立てて硝子が割れ、エプロン姿の女性が現れた。衣服はどす黒く汚れ、顔は赤黒く膨れて目は白く濁っている。外に出ようと足掻いているが、引き戸の中桟が邪魔をして出て来られない。
 よだれの糸を引き、唸り声を上げてこちらへ手を伸ばす姿にヨウコは総毛立った。
 早くここから逃げないと。
 息子の体を支えながらその場を離れようとしたが、すでにマコトの顔は女性と同じように赤黒く変色していた。
「マ、コト?」
 ヨウコの声にぴくりと反応すると、
「がああああっ」
 白く濁った目を剥いてえ、いきなり手を噛んできた。
 痺れるような激痛が走り、噛まれた部位が見る見る腫れ上がってくる。
 はじかれたようにマコトが駆け出した。十数メートル先にいる数人の歩行者に向かっていく。
「ま、待って、マコ――マコ――」
 ヨウコは息子の名を呼ぼうとしたが、ただただ人を噛みたくて、噛みたくて仕方がなくなり、「があああああああっ」と吠えた後は、息子の存在をもう思い出すことはなかった。


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