郵便配達天使人

手紙はこちらに届くまでが楽しいのであって、届いてしまうとそれを届けてくれたひとと一緒になにかが持ってかれてしまう、特別感みたいなものが。
だから、届くまえと届いたあとではまるで別である。届くまえのまだ見ぬ手紙は期待や希望そのものだけれど、届いてしまった手紙は寂しさそのものだ。

放たれてしまったら最後、矢は飛びつづけられないばかりか見ているうちに失速し、宙を駆けていられる時間を目減りさせてゆく。そして地に落ちる。または獲物に突き刺さる。そうしてたどり着いてしまった矢は、番えられるまえとも、飛んでいるさなかとも、別物のように見える。
むろん飛んでいる姿が、もっとも美しい。それは飛ばされたのと同時に、飛びつづけていられるような姿を自分で保とうとしているように見える。恒常性というのだろうか。すぐには落ちようとしない。なだらかに、とても緩慢に、力がつきるときまでは飛ぼうとしている。
力つきた、あるいは獲物に刺さったとき、それはもはや矢自身がそうであるようには矢ではない。矢にさせられたものの姿。

ところで、手紙には送り人がいるけれども、真に尊いのは送り人でも、送り人がそれを送ろうと思ったときの思いや力でもなくて、配達人、つまり天使である。
天使とは伝令で、媒介である。媒介は層……つまりフィルターやレイヤーではなく、メディウムだ。それ自体の質を持つ。
ほんとうは質とともに量も持つ、指向性を持つといいたいところだが、今日はこのへんで。

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