「大蒔絵展 ―漆と金の千年物語」に行った記

徳川園にいった。庭である。あんまり暑くならないうちに行ってよかった~~~。牡丹と藤が見ごろ。季節ものだねぇ。

庭一周して徳川美術館。5年ぶりとかそこらじゃなかろうか。前回なんだったか忘れた。それくらい前。建物とかも初めて見たくらいの感。

同時開催で、隣接しなかで繋がっている「蓬左文庫」の「能の世界」という企画展示を見に行ったのが本命だったりする。じつは「大蒔絵展」自体には去年10月に東京・三井記念美術館で行っている。そのときにえらく感激して図録まで買っていたので、まあ能面のついでに再訪、くらいのもん。

徳川美術館の「大蒔絵展」は三井記念のよりもスケールダウンしており、ぜんぜん「大」じゃないわな、と思った。といっても世界に散逸・輸出したものを含めず国内の歴史や広がりに限っても、蒔絵を覆い尽くそうと思えば三井記念のほうとて「大」とは言えない。どうしても趣味的なレベルにとどまってしまう。
そのレベルとはいっても、スケールダウンした徳川美術館のほうでも、まあ見ごたえはあったかと思う。国宝や重文が見られるというのもあるし、能文化はせいぜい室町以降、主には盛んになった江戸期のものだが、蒔絵は平安に遡る。比べるかたちになってしまったが「能の世界」展よりもずっしりとくる感触がある。

そもそもわたしは蒔絵のあしらいが好きだ。惚れこんだのは豊田市美術館に常設してある高橋節郎の作を見たことによる。
高橋は長く調度に装飾としてあしらわれてきた歴史から蒔絵を、その技法を切り離し、純粋に絵画的ないし芸術的な表現として扱っている。
たとえば屏風状の大きな板をいちめん黒漆で塗りこめ、金蒔絵で絵を描く(描く?)といったような、鑑賞用途のものになる。そのモチーフも太古の自然のすがたや世界のありよう、あるいは静物的モチーフとしての器楽、あるいは道化など、ノスタルジアを感じさせるものが多く興味深いが、わたしを捉えたのは地をなしている漆の黒の深さだった。
太古の闇――電灯はおろか人間の起こす火などない、深くどこまでも広がってゆく夜の闇とはこんなものかと思わせる、均質で滑らかで……もちろん漆のことだから表面は光沢を放っており硬質な印象を受けるが、しかしじつは粘性のなにかでできていて、ぬめらんと入って行けそうに思えてしまう黒。それは夜の闇である以上に、人間の心性を抽出したものかもしれなかった。

そんなで、蒔絵表現には興味がずっとあり、あちこちで見にいくにつれ技法的にも面白いと思えるようになった。
また、主に平安ころのものになるが、描かれるものが図案というのもいい。複雑な形象は技術的に難しく、それに伴い物語的な内容も持たない。そこには「視点」がないとも言う。誰の目でもない単純な自然の一部やパターンあるいはシンボルの舞踏。平面的であることは素朴であることだ。素朴であることは複雑でないことを意味しないし、貧相であることでもない。非常に繊細で豊かな、味わい深い鑑賞になる。
またこれはセンシティブなものいいになるが、やはり時代をさかのぼるほどその技巧は上層社会にのみ求められるものだったわけで、その技巧や表現の繊細さもふくよかさも、献上されるために編み出され、研ぎ澄まされた結果である。
そうしたものが素晴らしいのはある意味では当たり前だし、そこには「下降」というニュアンスがない。ひたすらの寿ぎ、上昇するモチーフ・シンボル……。そうした表現はひとつには言語的パフォーマンスであり、行為であった。そしてそこでは作者、技工士の指向性は限りなく薄められている。これが集団の制作物であったとしてもだ。時代観というものさえ稀薄になる。
往古の蒔絵とはそうした、誰が生んだのか、なぜ生まれたのかという観点が闇に掻き消えてしまう――ひょっとしたら、漆の黒のなかに紛れているのかもしれない――ものとしては、「芸術」ともまた違うなにかなのだ。

良さを語っていたつもりがいつの間にか批判になってしまっていたが、こうしたところもひっくるめて鑑賞体験のよさでもある。古いものを見るというのは、単純にいいことなのだ。あと、やっぱり蒔絵はきれいですよ~~~。「大蒔絵展」の図録、とても分厚くておススメです。

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