「アーツ・アンド・クラフツとデザイン」展に行った記。モリスの宇宙。

きのうと打って変わりの曇天。名古屋は長久手、リニモ。
リニモって名前なんなんだ。リニアモーターカーってこと?なんか、ドコモとかアハモとか、通信機器の名前っぽい。加えて、3文字でカタカナで、ってなんか2000年代半ば感があるけどどんなもんか。モバメとか。

地下鉄東西線を名古屋駅から終点まで行った名古屋の終わり、長久手市は尾張旭や瀬戸とも隣接しており、市の東側半分はなだらかな丘陵地帯にある。名古屋の東の果てからはじまる尾張・西三河の山間地帯の始まりとも言えよう。そしてその山間地帯は岐阜県南部(や、長野の南端)ともつながっている。岐阜県南部といえば多治見や土岐、そしてさきにあげた瀬戸とあわせて、ここらはかつて日本の陶磁器の一大生産地だった。中心地と言ってもよいのではないか。名古屋近辺に戻れば高浜や常滑もある。あまりその方面での評判を聞かないが、愛知は焼き物の土地だと思う。

そうした焼き物を生み育てた地の丘陵を窓外に見降ろしながら行く先は、愛知県陶磁美術館。冒頭に触れたように曇天だったが、あまり気鬱な眺めでもなかった。いまだ萌えない緑や、枯れ枝のなすくすんだ色の山容。しかしどことなくこんもり仕掛けているようにも見える。蕭条とした景色は威厳すら持っているようだった。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を思い出した。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉くによしなし

島崎藤村「千曲川旅情の歌」

詩では「しらがねの衾の岡辺」と続く。あれはいまだ雪を抱えた山岳地帯特有の長野の風景だろうと思った。

愛知県陶磁美術館には、「アーツ・アンド・クラフツとデザイン」を見に行った。ウィリアム・モリスに始まる19世紀末からの工芸とデザインの一端を紹介したものだが、わたしはてっきり陶磁美術館にちなんで河井寛次郎やバーナード・リーチ、つまり柳宗悦の主導した民芸運動と絡めた展示があるものと思ったいたが、イギリス・アメリカのアーツ・アンド・クラフツ運動に限られていた。
しかしウィリアム・モリスの影響と伝播に着目したもので、とても面白い。
わたしが特に気になったのは、ウィリアム・モリスそのひとの作品……デザインや彼のデザインがほどこされた織物、家具があったのだが、彼のデザインは明らかにその後の同運動のデザイナーのものとは違う。

彼はラスキンに触発されて、社会の機械化に抗うべく手作業への回帰、そしてデザインには自然を取り入れたとのことだが、彼の作品における自然の表象は「反復」や「対称」を基調にしている。むろん壁紙や織物のデザインはパターンなので、他のデザイナーでもどこまでも反復してゆける意匠に苦心しているのだろうが、モリスのデザインは非常に小さい範囲で意匠が完結し、その集合体として全体のデザインがある。つまり細部と全体が相似形で、細部が全体をなす。そして「対称」。彼は左右対称へのこだわりがあったようだ。正面向きに中心で分かたれる左右相同の構図。また、全体にこの限りではないが、彼は同じモチーフ(花など)をひとつのデザインに用いるにあたって、大小の差を明確にしてリズムをつける、ということはしていなかったように思う。

これらの作風が植物や小動物にあたって施されている。そこでの植物は、自然と抽象化された、幾何学的な形を取る。天に伸び上がるのではなく弧を描いてねじまがり、花弁をうちに収める葉や蔓など。
これは、一見すれば自然を矮小化し、人間の暮らしに用をなすデザインへの流用――ひいては商用化だ――にも見えるが、作品自体をじっさいに見るととてもそうではないと思える。彼の「自然」パターンの繰り返しは、文字通りの無限反復、無限延長を企図していたのではないかと思う。彼はそのようにして人間が自然に囲まれて暮らす、正確に言えば「自然が人間を取り込む」。
自生する植物が成長して丈を伸ばし、繁茂して版図を広げてゆくのは自然の理だ。植物はそのように同じもの・ことを繰り返すことで増殖してゆく(または増殖しながら同じものを生んでゆく)。モリスは個々の植物ではなくて、またその個別的な在りよう――画家や文人が「写生」するような――でもなくて、そうした大きな自然の営みそのものに心惹かれていたのだろうと思う。なればこそ、自然は目で見えるそのままの姿ではなく、変形された図案のかたちを取る。彼にとって自然とは観念であり、理念であるのだから。
つまり彼の無限反復する自然のモチーフは、人間のいない曼荼羅のようなもので、自然界というコスモスの「部分」なのだ。この部分はもちろん全体に直結している。
人間のいない、と言ったが、つまり彼は自然崇拝が第一で、それが結果的に人間の用をなす、というある種自然を上に、人間や人間の文化を下にというところがあったのではないかと思う。

モリス以後のデザイナーも反復や自然モチーフの抽象化は手掛けており、またアーツ・アンド・クラフツ運動は調度品としての器やランプにも広まりそこでも自然モチーフがあらわれているが、それらがモリスとまったく違う思想のいき方であるのは一目でわかる。彼らは自然をシンボルにしてしまっていて、個々の花が個々の美を誇る、というところに終始している。それが大きな世界の一部である、というところまで表現できていないのだ。

そんなことを考えた。あー洗濯物取り込んでないわ。

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