去っていったこと。なにも言わずに。

7/9。京セラ美術館のコレクション展を見にいった。
同地にはまだ名前の変わる前に何度か訪れたが、ふしぎに、父とダリ展を見にいった際のことしか覚えていない。
十年近くさかのぼるその途上で落としてきたのか、そこに見た絵の、展覧会の内容はまるで覚えがない。ただ、外郭に沿った回廊状の展示室を回りきて折り返しにあたる、螺旋階段とふだんは鎖されている出口が差し向いにある小休止のスペースにいて、柱のまえで休んでいる彼をよく覚えている。彼はその当時すでに七十を超えていたはずだから、わたしはいつもそうするように彼が疲れていないか案じながら見ていた、と思う。それだけだ。

こたびのコレクション展では当地にちなんだ京都を材にとった近代の作品を展示していた。日本画、洋画に留まらず伝統工芸や、工匠そのものを材にした版画、宇野仁松一族の陶芸も含む。

さきに触れた、リミナル・スペースというには過飾な柱廊の休止スペースをぬけて第三室は、「光そそぐ風景」と題して、都としてではない、自然と隣りあいまた古寺とよく調和した風光明媚な土地としての京都の絵を集めていた。

そこに、鴨川を描いた額をいくつも掛けた一角があった。
作者は異なるが明治後期から昭和初期の洋画。どれもそう大きくはないその画面に、おおらかに、清新あふれる存在感を持って鴨川が描かれている。ひとのすくない静謐な展示室のなかにも、そこだけ水の轟音が満ち渡るように。
(市内をゆく鴨川はどこも浅い。そこに見たのもまた流れも穏やかな晴れた日をモチーフに捉えたものだったが、斯様に川幅の広い大景を見るとわたしはいつも、果てない彼方より迫りきて押し流す、勢いついた水の壮大さを思う)

わたしはその絵画たちを前になにか迫りくるものがあって、ただ呆然と見ていたが、その瑞々しい印象はいまだにいや増すように思う。

絵の中の鴨川はむろん過去の映像だ。100年前後をさかのぼり、画家が見定めて色彩を持って定着させた、いまとなっては追憶の景。それでもこの時間のいとなみにも曲げられることなく――自然の激しい変動もなく、行政や住民の努力の成果なのか――、川の眺めはあまり変わっていなかった。出町柳のデルタを右岸からとる構図などほとんど同じいに留められているのではないか。

その変わらなさが、違和感を糧に、強い感動をわたしに喚び起こす。

変わらないものなど幻想でしかない。画中の草木も空の色も、おおまかな格好が変わらないだけで、入れ替わっている。河原をゆく親子があれば、彼らはいつか朽ち果てており、いまの河原をゆく親子も、どこかから来てたまさかにすれ違い、またどこかで朽ちてしまう、影のようなものでしかない。

創作過程における虚構や粉飾は当然あるものとして、それでもその作家が捉えていた現在にその時だけの鴨川があったのだ。絵の中にはそれが固着されているおり、そして、そのどちらもが今では紛れもなく過去のものになってしまったこと。それがいまとは似ても似つかないこと。なのに、まるまま重ね合わせてしまえるほどに変わらないことへの、異議申し立てにも等しい、強烈な違和感。

変わらないものがあるとすれば、それはかつてあったものすべてを押し流した張本人であり、一方でその景色を繋ぎわたしの前に眼前し、そして(何も変わらないよ)と嘯いてみせる、流れる水のごとくそこに横たわっている”時間”の存在だけだ。わたしたちは、みな時間の客体でしかなく、脇役を押しつけられている。
だから、わたしたちは時間を手に取って解きほぐすこともできないし、掴んで離さずにいることもできない。彼は常にここに、わたしたちを取り囲むエーテルのように充満しており、そして片時も同じ姿をしていない。指のすきまから砂がこぼれるそのときにだけ、それがなんであったかを知る。「ゆく川の流れは絶えずしてものと水にあらず」

いってしまった過去に対して、わたしたちができること。これもまた、なにもない。過去そのものが例えばこたびの絵画のように、わたしたちの生み出すある形式においてのみ感得されることが許された、存在しない幻想だからである。それが常に定点的に看取されたイメージを伴うことからすれば幻覚と呼べるだろう。画家と、わたしとの共謀からなる作り上げられた過去は、すでに自然の感知するところではなく、またその過去も常にあるポジションからのみ一方的に眺められ、かつ手の届かない、再び取り返すこともできないために、無理にそこに没入しようとすれば現在のわたしたちは幾重もの不可能のフレームをくぐらなければならないという制約のもとに、重量、圧力の前に、軋みを上げてこの眼前に帰ってこざるを得ない。
かつて「あった」というこのイマージュの錯誤の前に、踏み出そうとしてもそれができないいじましい焦慮こそが、わたしの最初に感じた思いだった。

現在は二重の重力であり、過去を相対化してのち、絶対化する。かつてわたしたちに親しかった場所として。もう手の届かないものとして。わたしがこの京都の古い建築を遺した壮大な美術館を訪れるたびに蘇る、父の幻覚もまた、彼に対する言葉にならないものを引き摺っている現在の影として、何度でもわたしに囁きかける。


過去の風景を残すことには、史料価値やノスタルジー以外に、こうしたずしりと重たくのしかかる帳を作り出すという、体験としての芸術的な価値を持つ。人はそこで各々の川を見つめる。社会の変化によって失われた、葬られてきた景色の、記憶の、私的な供養をしめやかに行う。川は一方向にしか流れないが、その勢いは絶えず変動し、支流が生まれることもある。わたしたちは汲み取った記憶をどこに置けばいいのか知らない。ただ、よく知る場所へ向かって流すほかない。

この日はわたしが美術館を出てのち、激しい驟雨に襲われた。炎天の盛りを誇った青空はわたしたちが追いつかない速度で暗転し、水を与えた。雨は晴天を忘れさす。ものみなを洗い流すが、それも長くは続かずに、またその雨も風に従い流れゆきて、晴れ間が顔を覗かせた。
今夏は天気の変転がめまぐるしい。また、より強い通り雨が来たるだろう。激しいうねりが、止め処なく、すべてを過去にしてゆく。


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