すぐに黒ずむパステル色の

みぃなとルーチ「Long time no sea」。

ほぼ一年がた聴いているアルバムだ。わたしが音楽を聴くのは間欠的なのだけど、これほど長期にわたって同じものを聴いているのは珍しい。
この名義のアーティストによる作品がいまのところこれ一枚しかないからかもしれない。2枚目3枚目とリリースが続いていればわたしはすぐに聞きたくなって飛び石を踏むようにそちらへ渡っていっただろう。1枚目も2枚目もどれもいいなぁ、となってもその中には選り好みがでてきたり比較が生じたりして、けっきょくアルバム単位で聴くことは散漫になってしまっただろうから、わたしにしては珍しい、僥倖の体験を得ていることになる。ところで間欠的ってなんか、間欠泉みたいで落ち着かないね。

「ロング・タイム・ノー・シー(Long time no see)」というのは「ひさしぶりだね」という慣用句なのだけど、seeがアルバムタイトルとしてはseaに変えられていて、洒落ていますね。海。掛け言葉であるのは最初のLが大文字になっているのからしても確信的だと思うが、あえて訳せば海のない長い時間、ひいてはひさしくまみえられなかった海、とでもなるのかしらん。
海のイメージを継いで、さらに膨らませてゆくように収録曲の詞には海がしばしば現われる。同時に「遠さ」のイメージもある。
望郷などのように遠つくにを望むのではなくて、どこか遠い場所や海のむこうに詞の人物がいて、当地の言葉で歌っている声を聴いているような浮遊感がある。異国情緒ともちがう。翻訳調なのだ。それも無理に翻訳された堅苦しい言葉でなくて、語やイメージが、童話や昔懐かしいひびきを伝えてくる。あきらかにここではないどこか。また語のレベル以外にも、具体的、現実的な、実感のこもった切実な内省や内的衝迫というのも歌われてはおらず、すくない言葉で遊んでいる、たゆたっている、あるいは、また別の遠つくにを臨んでいるような、voyageの意気を感じる。

まあそんなことは別によくて、よくてでもないけど、すごくいいアルバムなのでちょっと触れておきたかった。ぜひ聴いてほしい。というCMで閑話休題。閑古鳥からの九官鳥。わたしはこの名義人であるところの「みぃな」というアーティストに特別な感興があって、次はそれに触れようと思います。ルーチというのは誰のことかなんのことか、知らない。
「みぃな」のことは音楽グループ「さよならポニーテール」に在籍するボーカリストだというので知っていた。通称「さよポニ」は覆面音楽集団で、活動も配信と円盤のリリースや動画サイトへのアップロードに留まり、顔出しの活動や対外的なPRはまったくしない。タイアップやコラボで名前を出していたのは知っているけれども、それとてメンバーを描いたイラストレーションでの登場で、ようするに、「制作しているひとたち」はいるのに目に見えるのは「二次元化されたひと」――それは視覚表象のみならずSNSアカウントや文字媒体の場合もある――という、情報に落とし込まれたかたちでしかない。「いる」ことと「知覚できる」ことのあわいにしか存在せず、活動開始から現在までずっとそのへんをゆらゆら漂っているグループである。「みぃな」は、そこのメインボーカリスト。

みぃなは声がかすかにハスキーがかって、大人びた甘い声とも言えるし、まだ青く固い少女のような声とも言える、特徴的な歌声の持ち主。その声を張り上げて歌うようなことはなく、躊躇いのあげくに絞り出すような、ひと言ずつを確かに置いてゆく、トーキング調というより朗読調と言ってもいいかもしれない。そんな声がひとを惹きつけるのはもちろんのこと、わたしが気になっていたのはずっと、大袈裟に思えるほどの「ブレス」だった。
いまではあまり目立たなくなってきていて、それはボーカリストとしての成熟のあらわれで、もっとほかの、例えば節回しとか、ボリュームの匙加減とか、いろいろ自信のついた部分もあると思うのだけど、わたしが最初に聞いたさよポニのメジャー1st「魔法のメロディ」では、本当に、ワンセンテンスごとってくらいに深く、大きなブレスをいれていて、それでリズム感を失わない技巧にまで思い及んでしまうほどだった。
長いブレスの先端は、吸い始める風が唇にぶつかる音や、唇、舌、歯、喉の筋肉のふるえまで聞こえてきそうに、素朴というにはとても生々しい、しかしほかでは聴けないそれがやはりかえって音楽を、彼女を素朴に見せる、そんな新鮮さと懐かしさを呼び起こす刹那の音まで収められていて、こうしてブレスを効果的な表現手法として用いるのはビートルズの「Girl」でも聞いていたけれども、それにつけても執拗な、徹底した、ほかに術を知らないようにも思えるその回数が、わたしを打ちのめした。

曲を構成しているのはオケと歌で、歌が歌詞とメロディに分けられて歌詞がメロディに乗った状態で捉えられるなら、歌いだす前のブレスはボーカリストの身体の側の問題であってそれは予備動作、曲とは、音楽とはなんらの関係もないように扱われるが、しかし事実ブレスもこうして、あからさまに収録されているのだし、このみぃなの歌についてはブレスもまた彼女の表現、音楽として見る(聞く)のがよろしい。音符を、ではなく呼吸を聞くのだ。
ことはみぃなに限った話ではなく、すべての(実体を持つ)ボーカリストが喉を持ち、呼気をもって吐気とともに声をしてしらべを奏でているのだから、更には、すべての楽器演奏者が脊椎や背骨や腕の筋肉をもって楽器を奏でているのだから、そうした身体の条件は音楽にとって必要不可欠なのだが、わたしたちはいつの間にか、耳で聴きとる楽器の音やメロディ、声の質感のみを音楽の要件だと思い込んでいて、時には逆算的にそこから各プレイヤーの身体や人格を想像したりする。が、むろん音楽が成立するには音は後、身体が先である。

ブレスそれ自体には曲が必要とする音はこめられていない。それは前提であって個別の表現の域には至らないから。みぃなのブレスも各個の曲を聴く分には切り離してしまって構わないのだが、しかしこのブレスが与えて、曲からは与えてくれない想像力の余地というのもあって、むしろそれがなす領域の全体のなかに曲がある。

それは音楽が始まる予感を湛えた場所。そこからしか音楽が生まれてこないような場所。ブレスがあることは、そこに実体をなす人間がいて、人間はおそらく立っていて、背筋を伸ばして、意を決したように閉じていた口を開けて、そこに至る前には逡巡があって、あるいは寝呆けがあって、忘れていたことを思い出したりして、まだ眠かったりして、あるいは食事の後で、次の食事はなににしようかと早くも考えたりしていて、カフェインが効きすぎたりしているかもしれなくて、すこし気が立っていて、なぜコーヒーを飲んだのかと言えばそれが習慣だからで、習慣になる前は水しか飲んでいなくて、更にさかのぼれば粉末ミルクしか飲めなかった時期があったりして……など、などなど、そこにいる人間のことを無限に考えさせる。そしてそのひとりの人間が、なぜ音楽に興味を持ち、歌を歌おうと思ったのか、というゆきさつまでをも想像させる。

すべての音楽が生まれる場所は、突き詰まるところひとつしかない。それは人間であり、人間が生まれる前にはなにもない。沈黙と闇しかないのだ。
その沈黙をそっと、慎重に優しく、恐れを含みながら、それでも決然とめくりあげたものこそ人間であり、音楽家なのだ。

みぃなの紡ぐ音楽は常につねに、わたしをそうした原初的な場所に連れてゆき、その更に無辺際のむこうから、宙を舞う、もはや人間をやめたような軽さで、彼女は笑っている。

今日から毎日なんか書くぞ~とかるい気持ちで書き始めたのに、けっきょくのんべんだらりとつれづれなことを書き連ねてしまった。ヤなんだよな、長くなるから。

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