見てない映画を批判すんな!

友人から最近見た映画の話を聞いていたら、そこに次のような人物がでてきたらしい。
とても感受性が豊かで他人がこうむる被害に敏感すぎるあまり、この世にはあまりに多くの害をなす人間と害をこうむりつづける人間がいることに絶望し自分の部屋から出られなくなってしまう……という女性。
まあなんか、部屋からでられなくなるには直近の出来事があって、友人はなんかいろいろ説明してくれたんだけどわたしは「自分もその平然とまかり通ってしまう世間的な害悪行為を看過することでそこに加担していた、と思いいたった」みたいなことかなと思った。しょうじき映画見てないのでなんとでもいえるんですが。

で、友人的にはこの映画を見て優しさとはなんなんでしょうね……と考えさせられたそうなのだが、まああなたがそう思ったことはいいんだが、否定しないんだが……すくなくとも↑の部分に関しては優しさでもなんでもなくないか!? と思った。
「優しさ」ってどんなかたちであれ他人にほどこされるとき、はじめて姿を現すものじゃない? 可視化されるんじゃない? 逆にいえば頭で考えてるだけ、こうしたいと夢想してるだけなんてただのお人形じゃないですか。
まして「優しくあれ、優しくありたい」と思い詰めることで身動きができなくなり友人に心配をかけているような事態にもなれば、そのひとを優しいひとというのはおこがましいだろう。
きっと別な名前をつけたほうがいいんだろうな。”優しさ”とか「優しさ」とかカッコ書きで表徴をつけるのもいい。それか優しみとかね。優しさ成分ではあるのだけど、有効性やそれが外面的な特徴になるまで至っていない。

わたしはそうした内部において留まるだけの優しさ、それによって誰かが直接に「救われた」などの感覚や喜びや嬉しさという快の感情を得られるわけではないものを批判的に取り上げたが、とはいえ「優しさ」はむずかしいと思う。
どうしたって自己満足的なところを出ない。むしろ究極自分にむかうものではないか? 自己充足だとか利己、ナルシシスムなどなど、そうした自分にまつわる言葉がいくつも浮かんで整理がつかないが、どれもにネガティブなニュアンスがついてくる。
しかし人間の欲望や理想には際限がなく、どんな大きな自己像なり世界像なりを描いていたとてそれを行動に移すには能力的、キャパシティ的にどうしても限界があるものだ。
その限界をまえに、押しつぶされることを回避するためには裁量をふるって、どこかで自分の能力と折り合いをつけなければならない。できる範囲で~ということだ。これをしないという判断、つまり「いや自分はもっとひとに優しくなれるはずだ。こんなこともあんなこともして、もっともっとできるようにならなければ」と改善につとめてゆくというのもアリかもしれないが……、お分かりだろうか。すでにそれは利他を遥か昔にほっぽっている、自己満足のみを目的としたものになっている。「優しい」は常に限定的なものだ。
そして折り合いをつけるというのは、自分が助けられる範囲を見極めることに他ならない。つまり自分の手に負えないところで困っているひとは見捨てることと、それを「助けられない」と冷静に判断をすることで自分を見捨てることだ。

自己満足やナルシスム……もしくはもっと下心をもって他人によく思われたいと思ってする「優しさ」が、いつの間にか自分を切り捨てることになっている。
このあたりはまだまとめきれてないのだが、きっと誰しも「優しいこと」、ほどこしのようなことをするときに感じた「自分がいないような感覚」、無私の感覚に覚えがあるのではないだろうか?
そうなのだ。優しさのなかには、エゴイズムから発してどこかでそれを抑制し、対消滅させエゴを消してしまう作用がある。(自分で言っててなにが「そうなのだ」だか)

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