下向き三角形の供述調書

10年がた前になるが、こんな短歌を作った。

鴨ふとれこっちの鴨は泳げかしふたつえいえん並び継ぐなり

またこれは昨年の作だと思うが、近年のもの。

無関心の獣来りて剝製の獣とずっと並び居るなり

過去の自作を詳らかにしてうんぬん、というのも野暮だと思うし、だいいち先のものはどういう意図で作ったかなどとんと覚えがない。即景からの発想だと思うが。ただ今日このふたつを合わせて思い出して、なるほど自分は相似形のものに惹かれるのだな、と思った。

とはいえ、たとえば目の前に同じ規格で作られたボールペンが2本あってもさほどの感興もないし、双子の人物を見ても双子なんだとしか思わない。おそらくまったく同じに見えるのにまるで違う、というのが面白いのだと思う。
そういう基準でいえば動物はうってつけだ。当人たちにとっては失礼極まりないだろうが、人間から見れば同じ種の別個体などほとんど区別はつかない。しかしそれでも彼らは異なる存在としての生を生きている。その同じなのに違う、というのが面白い。
すこし趣味が悪いが、等身大の犬のぬいぐるみの隣にモチーフとなった犬を並べてみる、というのもとても絵になると思う。それなら人間はどうだろう。人間の写し鏡は人形だ。しかし、人形の世界は人間に近すぎるからだろうか、「違う」ということがわかってしまう。むしろわたしから見れば、人形には人形だけの、人間のいない世界がある、というほうが自然だ。

話を戻す。わたしが相似形に注目する理由だが、それはifの姿や並行世界的なヴァリアントを見ているからではなくて、「どちらかが偽物であり、また同時にどちらも本物である」ということを思いつくからだと思う。
どちらも偽物ではない。どちらも本物なのだ。しかし本物はふたつとこの世にあり得ない。ということは片方が本物なとき、もう片方は偽物になる。恐らく互いにそう思っているからこそ、まるで別な行き方を歩む。片割れなんてぜんぜん自分には関係ないよと言い聞かせながら。
それでも別れた自らの生き写しのことを彼は終生気にし続けるだろう。

わたしはいつも「本来の自分」というような存在を身の内に感じていて、いまこうしてものを見聞きし、触れ、行動を移すのは自分でありながら仮のものだと思う。そして折に触れてほんらいの自分の怒りを買うことを恐れる。わたしはほんらいの自分の手足でありながら、彼の意のままにできないことを申し訳なく思う。彼はもちろんわたしそのものなのだが、いまのわたしのような風貌はしていなくて、わたし自身は間に合わせでやり過ごしているようなものだ。彼がどんな風貌なのかは想像もつかない。すくなくともひとつに重なり合うことは最後までできない。

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