練りものの日

気温も気圧も乱降下で、案の定体調がどえらいことになりましたが……なんか最近体調不良カルテみたいになってますが……。

あまりに体調が悪く、言語野をやられてしまったのか今日はずっと練り物のことを考えていた。いったんちくわとかはんぺんとかかまぼこを経由して言語に置き換えられる。そうでなければ話が通じないのだ。

・こんにちは→ごぼう巻き→ええ、こんにちは

ほとんどの名前は現実にあるモノの代替物だが、誰かにとってあるいは一般においてのAという名前がわたしにとってBでないのが不思議だ。誰かがわたしに「今日は雨」というときに、なぜ今日が明日でないのか、雨がちくわのことでないのかわからない。わからないのに、わたしがそれを「明日ちくわを食べる」と理解した場合、それは間違っていると判断できること。しかしその間違いは言葉の表層的な意味においてであって、「彼が伝えたかった真の意味」においては、もしかしたらわたしは間違っていないのかもしれない。

言葉はつねにこうした不明な部分を残しており、真の意味の存在する余地を持っている。はた迷惑なことに。

ちなみに、そうして望まれずに生まれてしまった「可能性」は、仮説としてではなくもし誤って誰かにそう理解されてしまったのならば、その生まれてしまった言葉は、そこから想起された「可能性」は、彼のなかで保存されつづける。つまりちくわのことだが。歌詞の空耳などがそうだ。じっさいの歌詞よりも、空聴いた誤変換の歌詞のほうがよりよいフレーズだと思えるだろう。それは間違っているのだろうか。間違っているとして、なんなのだろうか。
むしろ、彼らが「間違っていない」世界が存在すること、そっちのほうが楽しそうだと思うことのほうが大切ではないのか。

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