『水仙』 - 太宰治

 しばらく前にたまたまこのpostを見て興味を持った。

 著作権が切れているのと青空文庫有志のおかげで無料で読める。ありがたい。
 太宰は好きじゃなかったけど改めて読んでみると分かりやすい文章を書くなあと見直した。
 ついでにwikipediaで略歴などを読んだ。こんな誰もが知ってる有名作家が当時喉から手が出るほど欲しかった芥川賞をついに受賞し得ず、最近の無名作家がバンバン獲ってるのを見ると可哀想になってくる。大宰も浮かばれない。みんな最初は無名作家だし、今とは審査員も違うし、単なる結果論だろうか。しかし新人賞としては一貫して命中率低めな気がする。

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 終盤「それは読者の推量にまかせる。」のくだりで(古いなあ…)と思わず笑ってしまった。どちらに転んでも別に大した話ではないのにやたらと読者の想像にお任せしてしまうこの手のレトリックが昭和のころ多用されていて、本当にしばしば目にしたものだと思い出したからだ。

 しかしこれ現代文の授業などで《読者の推量に任せた理由は何か?》みたいな設問をされたら正答する自信がないことに気付いて俄に不安になった。どう説明すればいいだろうか?

 まず明言せず謎掛けにした理由は、二つ以上の答えがあり得、そのどれとも敢えて断定したくないから。
 主人公が絵を引き裂いた理由は複数挙げられそうだ:

  1. 事態を収拾させるための善後策として、表向きは静子が非才であると糾弾する役に徹し切ろうとしたから。

  2. 最初絵も見ずに指弾した結果趨勢に影響を与えてしまった経緯に責任を感じており、もはや後戻りできず、自己正当化のためにやった。

  3. つまらない絵だったが、静子の名誉のため証拠隠滅し、代わりにこの小説を残した。

  4. 作家としてどちらとも取れる話になった方が面白いと思ったから。

 問題は3の場合だ。
 〈この可能性を残しておくために謎掛けにした〉というのが最初の設問の答えになりそう。

「僕には、絵がわかるつもりだ。草田氏にさえ、教える事が出来るくらいに、わかるつもりだ。水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。

 わざわざ直前にこのように断言しているところに白々しさがある。これは3の説を補強する材料になる。意図的にそう読めるように書いている。

惣兵衛氏は、ハイカラな人である。背の高い、堂々たる美男である。いつも、にこにこ笑っている。いい洋画を、たくさん持っている。ドガの競馬の画が、その中でも一ばん自慢のものらしい。けれども、自分の趣味の高さを誇るような素振りは、ちっとも見せない。美術に関する話も、あまりしない。

 このような紳士に対して「自分の方が絵が分かる」などとどうして言えるのだろう。もちろんわざとこのように書いているのだ。この語り手が信頼できない語り手であることを匂わせるために。

 『忠直卿行状記』の引用に始まり最初からリドルストーリーの体裁だったこの話だが、静子が天才だった/或いは凡才だったことが、客観的事実として検証可能であれば、その体裁が破綻してしまう。
 だから最後の一枚を引き裂いて火にくべた。
 しかしまだその実物を見た主人公が残っている。ここで主人公を信頼できない語り手とすることで、どちらとも分からない両義的な状態を維持しようとした。

 リドルストーリーに信頼できない語り手問題というメタ構造を被せてきているのは物語の建て付けがあまりよろしくない気がする。

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