荒野泰典編『日本の時代史14 江戸幕府と東アジア』吉川弘文館、2003年

7~181ページ部分からのメモ

・明や朝鮮との講和の重要性を理解し、実践していったのが家康。他の五大老は自国の経営に専念しようとし、外交の意識がなかったのではないか。
・東南アジア諸国への書簡が送られた目的は
①正式なルートで紛争を外交的に解決すること
②私的な貿易に公的な性格を持たせ、貿易ルートを安定化させる
→朱印船制度の創設

・当時の国際社会が日本に求めたことは、倭寇などの禁圧や統制。徳川政権が国際的な正当性を確保する前提条件だった。
・国家主権の及ぶ範囲を明示。法の属人主義

・秀吉の死の直後から、家康はフィリピンやメキシコとの通交関係を開くこと、関東にスペイン船を招致して、江戸近辺に貿易拠点を築くことを意図していた。慶長期の書簡の宛先はルソンが最も多く、スペインに期待していたことがわかる。
・しかし、スペインは日本をキリスト教布教の対象としてしか考えていなかった。
・イギリスも平戸に商館を開いたが、日本で売れるのはイギリス産の毛織物ではなく、中国産の生糸や絹織物など。そのうちイギリスは日本から撤退。
・17世紀初頭の長崎市民はほとんどがキリシタンだった。ポルトガル貿易はイエズス会の仲介がなければ成立せず、町政はキリシタンに握られていた。

・徳川政権のキリスト教排除の理由
家康→メキシコ総督宛書簡:
主従制を固め領主間の盟約を保証するのは、日本の「神」を媒介にした誓約すなわち起請であり、異質な神は役に立たない。
→日本は神々への起請により秩序が保たれる国である。領主社会の具体的なありように根ざした観念。
習俗の否定は民衆にとっても日常生活の基盤の破壊ということになり、あらゆる局面で異質な習俗間の厳しい対立が生じてしまう。

・全国で一斉に城と城下町が建設された。従来は幕府の大名統制策と大名の領内整備の問題として考えられてきたが、平和の実現により戦場を失った雑兵たちへ働き場を提供するものでもあった。

・秀忠政権が政権の基礎を固めるために必要だったこと
①家康の正当な後継者としての立場を固めること
②全国の大名を自身の統帥権のもとに置くこと
③諸大名を実際に動員すること
④全国の大名配置に政権の意図を貫徹すること

・時代が戦争から平和へ移り変わる中で、武士のあり方も変化を求められた。法度もその規範を示すものだが、アイデンティティの危機を感じた者たちは、かぶきの風潮を生み出した。
・際限のない普請役を廃止しても、徳川の平和が維持されなければならない。国内外にその要素が必要。
国際的要素:日本型華夷秩序

・海禁政策により国際関係を管理。陸上の関所のように、人モノ情報などの流通に国家の管理がおよんでいることの表現である。

・当時、「鎖国」という言葉も概念もなかった。幕末から使われるようになった。

・不安定な明日の計算できない自由よりも、平和で安定している不自由を選ぶ時代へ

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