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日本仏像史メモ(飛鳥・奈良時代)

※勉強のためのメモにつき不完全。『日本仏像史』美術出版社を参照

飛鳥時代

6世紀、百済から公的に仏教が伝来。百済が従属していた南朝・梁は仏教的世界観を重視。
高度に体系化された大乗仏教の理念、儀式、黄金の仏像を受容。
推古朝から本格的な仏教国家建設が始まる。

飛鳥大仏

  • 〈安居院〉と呼ぶ仮堂に本尊の〈飛鳥大仏〉(釈迦如来坐像)を安置。かつての中金堂の位置。

  • 建久7年の火災のため、当初部は一部のみ。

  • 『日本書紀』では推古13年に鞍作鳥により着手されたと書かれている。

法隆寺金堂釈迦三尊像

  • 光背の裏面の銘文から推古31年(623年)に止利仏師の手により造立されたことがわかる。

  • 銘文によれば、当初、聖徳太子の病気平癒のためとされたが、直後に亡くなったため、追善の像として完成された。

  • 三尊はアルカイック・スマイルを浮かべる神秘的風貌。左右対称の正面観照性を基調とした全体観。

  • 中国の竜門石窟の像に見られる北魏時代後半の彫刻様式に近く、東西魏や北斉・北周にかけての要素を部分的に加えたもの。南朝様式の影響も想定される。

  • 本体や台座・光背、天蓋などの総合的なデザインが『大智度論』所説の内容に良く符号していることも指摘される。造像に関わった人々の仏教の知識が高度なものであったことを推測させる。

  • 三尊の技法は主に蝋型原型によるブロンズ製鋳造からなり、線刻を施した後に表面を鍍金で仕上げる。

法隆寺夢殿救世観音立像

広隆寺弥勒菩薩半跏像

法隆寺金堂四天王像

法輪寺薬師如来坐像
観心寺観音立像
法隆寺百済観音立像
菩薩半跏像(法隆寺献納宝物156号)

朝鮮半島情勢緊迫化の中、唐との直接交流は盛ん。白村江の戦いで大敗し、百済の王族・貴族が大量に日本に亡命する。寺院の造営や造像に彼らの影響も考慮すべき。
川原寺の造営に注目。旧境内から大量の塑像断片や塼仏が見いだされ、塑像や塼仏の時代が始まったことをうかがわせる。新しい初唐様式が日本でも開花。

興福寺の仏頭

  • 天武14年(685年)完成とされる金銅仏で、今日では頭部のみ。

  • 溌溂と張った顔の輪郭、弧を描く眉から直線的にとおった鼻筋、縁に稜の立った唇、慈悲をたたえる切れ長の目など、スッキリとした造形。若々しい時代の息吹を感じさせる。

  • 技法は、

当麻寺金堂本尊弥勒仏坐像、四天王立像

藤原京の建設
天武末年開始、持統朝に受け継がれる。
中央集権的な国家化、「日本」国号の成立。
気宇壮大で清冽、しかしその率直さとは裏腹の一種屈折した気分も併せ持つ独自の感覚を醸成

中宮寺弥勒菩薩半跏像、法隆寺夢違観音像

薬師寺金堂薬師三尊像

奈良時代(前半)

律令制の確立とともに仏教への国家的統制が強まる。仏教は天皇を中心とする中央集権国家の政治を支える性格を強くする。
国家的政策に基づく大規模な寺院の造営が盛ん。官営工房での作成。
飛鳥京・藤原京の寺院が平城京に移築され、重要な景観を構成。
4回の遣唐使派遣により仏教美術に直接的な影響。
前期の仏像は写実を基調とし、体躯のバランスが整った理想美を追求するような造形が特徴。
あまり木彫像の制作を重視していない。遺品がない。塑像と脱活乾漆像が盛んに制作された。8世紀前半は捻塑像の時代と言える。(日本の仏像の多くは木彫像)
唐からの絶えざる影響と、その選択的受容を通して我が国の造形伝統が、この頃一定の型式として確立された。

法隆寺五重塔の塔本塑像

和銅4年の造作。710年代の基準作。
仏教的な山岳表現をともなう群像は、中国5世紀の文献例に淵源がたどれる。初唐期の塑壁のようすを伝える。
比例の整った自然な体つきや細かく複雑に表された衣文に写実性の進展。
慶雲元年の遣唐使帰国にともなう影響により表現の変化。

薬師寺東西塔の塔本塑像

730年代の基準作。
表甲と前楯を組み合わせた神将像の甲制は、唐や統一新羅の甲制とは異なる日本独自のもので、近代まで継承された。

興福寺八部衆・十大弟子立像

730年代の基準作。光明皇后発願の西金堂の旧仏。
ほっそりした体つき、着甲像は皮甲が分厚く肉親の起伏があらわされない。清純で若々しい作風は法隆寺塔本塑像の作風が継承される。一方、顔の表現はより現実的で、眉の微妙な動きが表情に細やかな感情を与える。
西金堂像は『金光明最勝王経』を典拠とするとみられる。

東大寺法華堂不空羂索観音菩薩立像

脱活乾漆像。740年代の製作。
骨格たくましい体つきは充実した量感を示し、強く起伏する肉身には生命感が溢れている。肉体表現を強く意識した作風は、興福寺西金銅像の作風から飛躍がみられる。
玄昉帰国にともなう雑密信仰の広まりを背景に変化観音像の制作が本格化。
本像の造立は、橘諸兄政権下での政変との具体的な関連が想定。

東大寺法華堂金剛力士立像

脱活乾漆像。
各像のしなやかなポーズ、着甲像の皮甲の質感あふれる表現、皮甲を通して肉身の起伏をあらわす表現などに時代的な特徴がある。興福寺西金堂像との違いが明らか。

法華堂執金剛神立像、伝日光月光菩薩立像、戒壇堂四天王立像、新薬師寺十二神将立像

天平塑像の傑作。740年代の製作。
細やかで丁寧な塑形と気品ある典雅な作風が特徴。
当初の鮮やかな彩色が残る。盛唐の作例よりも穏やかにまとめられており、盛唐彫塑に学びながらも独自の表現に達している。
十二神将立像は私的な造像とみられる。

東大寺大仏殿毘盧遮那仏坐像

聖武天皇が発願し、752年に開眼。ブロンズ像。
両脚部の大きくうねる太い衣文に、8世紀後半の作例につながる特徴がうかがわれる。

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