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第三十候 半夏生(はんげしょうず)

「そう考えると、死ぬということも、キノコがまた菌糸に戻るように、「ひとつ」に戻っていくことかもしれない。ただ、この「ひとつ」の概念というのが難しくて、ひとつであるんだけれども、なんて言うのかな……。ちょっとまだこの辺が上手に表現しきれないです」*

梨木香歩さんの『やがて満ちてくる光の』を読んでいて印象的な一節があった。死ぬことを「ひとつ」に戻っていくと捉えながらも、輪廻の枠組みを取らないそれは、おそらく私にとって親近感ある死の理解に近い。

また、『終末期がん患者のスピリチュアルペインとそのケア』**という論文を読む中で、死などを前にした人間は多くの場合、生の無価値、空虚(スピリチュアルペイン)に苦しむ、と記述があった。それはそうだろうなと思う。そのスピリチュアルペインへの対処として、死を超えた将来・関係性・自律を、それぞれ自己内面の価値観の中につくり上げていく必要があるという結びだった。将来・関係性・自律の維持、回復の一例として、以下のようなことが挙げられる。

将来性の維持、回復
「死後、私は有機物として分解されることで世界と溶け合っていき、自意識は無くなっていく。しかしその結果、世界存在と一心になり自然(じねん)となる。それはそのまま、今は亡きひと、もの、季節の巡り、空間のふくらみ、知覚内外のひかりと一心になるということを指す」
関係性の維持、回復
「死を前に、私は大切な人との繋がりを捉え、覚え、死後も、わたしとあなたの繋がりの暖かさをこの世に残していく、響かせていく」
自律の維持、回復
「死を前にしても、私にできることはある。身体が動かなくなり、頭が働かなくなり、自分の世話を自分でできなくなったとしても、祈ることができる。祈りの価値に、心身の意気軒高さ、費やす時間、量はいっさい関係がない」

死を眼前に迎えながら、地をしっかと捉えて眼差しのひかりを保つことは、おそらく私がいま想像するより遥かに難しい。けれどこの論文**を読むと、将来・関係性・自律の喪失には、対処していくための指標がある、と思える。


わたしは自己の死を考えるとき、「他者の死」(私たちにとって実際の死は常に他者のものだが)が自己の内面にどのような残響を生むか、ということが、関心事のひとつとして浮かぶ。死という事象の受け取り方は、個々人によってかなり異なっているように思う。50、60、70歳代以上の人の多くは、一度ならず死別に接しているだろう。けれど、死から何を考えるのか、には大きな差があると話していて思う。それは畢竟、死が自己内面に息づいているかどうか、という違いなのだろうか。自分が死ぬ存在であることを諒解しているかどうか、自分の死後遺される人の有り様を想像し構想し行動しているかどうかという違いなのだろうか。もしくは、この生に続く自らの死後の概念を、納得いく形で諒解しようとしているかどうかという違いなのだろうか。

私の知るイデオロギーや宗教には、大まかに以下のような死後理解がある。

科学:死後は無。もしくは他の有機物と同じく分解される。魂については、現状言及が難しい。
仏教:死後は六道を巡りながら、輪廻転生する。輪廻から解脱(涅槃・悟り)することで生老病死から解放される。地獄・罪・罰の概念から離れ、あらゆる人が救われる(悪人正機)とする場合もある。
キリスト教:死後には天国がある。天国・地獄へ行く前に最後の審判があるとする場合もある。また、地獄の概念から離れ、あらゆる人が神愛(アガペー)の対象であるとする場合もある。

私は科学における「他の有機物と同じく分解される」という事象に希望を持つ。分解されるのであれば、意識を保たないだろうから。

人の悩み、苦しみは須く(すべからく)、肉体がある、意識がある、考えることができる、ということから生じるように私は思う。だからこそ、死後も意識を保つとする見解に私は同意しがたい。もちろん、人のうつくしさ、暖かさ、清冽さも、意識や考えから生じるとはいえ。

「僕のことは夢だと思ってください」***とカフカは言う。
「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧に過ぎない」****と新約聖書は言う。

わたしの、わたしたちの生が夢や霧のようなものであればいいなと思う。けれど、生を、うつくしく消え行く夢や霧にするためには、死を超えた将来・関係性・自律の概念を自己内面に掴み、滲むように周囲に示していく必要があると感じる。梅雨の晴れ間に虹を見るような、ひとときの夢や霧となるために、わたしたちにはできることがある。「死を超えた」概念について未着手のままでは、思うような夢や霧にはなれないのだろう。もしくは、また別の道行きもあるのかもしれない。

ただわたしは死を、多くの人のように、雨に濡れた鈍重たる鉄の軛(くびき)のようには思わない。朝夕移りゆく陽の色を帯びた、光射す蜃気楼のように見なす。その陽のひかりをわたしはわたしの周囲に滲ませていきたい。死は黒鉛で塗り潰されるべきものでも、蓋をされ眼を逸らされるべきものでもない。思索し、語り合い、伝え合い、言葉を、思いを渡し合うことで死は、おぼろげに波立つ白い霧の合い間を縫い、ひとやものの親愛の眼差しがきらめく、淡い蜃気楼のようなものとして捉えていくこともできるのだから。*****




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第三十候 半夏生(はんげしょうず)
7月2日〜7月6日頃

生薬にもなる半夏(烏柄杓)が苞を持つ時期
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参考文献・資料:
(引用)*梨木香歩, 『やがて満ちてくる光の』, 39/100%, 新潮社, 2023/06/01. https://www.shinchosha.co.jp/book/125346/
**村田久行, “終末期がん患者のスピリチュアルペインとそのケア”, J-STAGE早期公開論文, 2010年. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjspc/18/1/18_10-0009/_pdf
***頭木弘樹編, 『絶望名人カフカ希望名人ゲーテ』, 草思社, 2018年. https://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2336.html
****新約聖書(口語訳)ヤコブの手紙4章14節. https://www.bible.or.jp/read/vers_search/titlechapter.html
*****佐藤由美子, 『死に逝く人は何を想うのか』, ポプラ社, 2017. https://www.poplar.co.jp/book/search/result/archive/8201116.html
山下 景子, 『二十四節気と七十二候の季節手帖』, 成美堂出版, 2013年. https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415314846

(仲夏、夏至・末候、第三十候 半夏生(はんげしょうず))

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