コミケを楽しめなかった人間の言い訳、推しと趣味に対する殴り書き

今や、「推し活」という言葉は一部界隈の言語ではなく、一般的にも用いられている言葉だ。「推し」とは二次元や三次元問わず、人にお勧めしたいほど好きなもの(推薦)からきていると書いているが少ししっくりこない。
これには個人的な考えだが、「推し=貢ぐ」が根底にあると考えている。金をかけたやつほど偉いというと少し違うかもしれないが、多くのイベントに足を運び、多くのグッズを集め、SNSや配信もチェックする。こういった愛情の可視化が「推し活」の根源であると私は思っているし、こういった考え方のせいで私自身が推し活できなくなっているのであろうとは思っている。

なぜ、こんなことを思ったのかというと、コミックマーケットに先日行ったことが起因する。行こうとしていったわけではなく、知り合いに誘われる形で人生初参加のコミケだった。正直、現在の自分はVtuberもYoasterもMihoyoもさっぱりわからないため、ほとんどの本もコスプレもわからなかった。わからないことに対する悔しさはあったが、わかったならコミケを楽しめたのかと言われればNoだろう。私のできなかった「好き」による推し活、楽しみ方を見たとき正直に一言「うらやましい」と思ってしまった。これは自分の向き合い方の問題であって、知識があったところで解決する問題ではないことは重々承知している。本を売る人からコスプレイヤーまで全員輝いて見えた。コミケという場の中で自分だけ楽しめてないのかと周りの輝かしい太陽の熱気に身を焼かれながら歩いた。

ここからは言い訳ゾーンに入ります。

これまでの人生で「推し活」として認めていいのは大学時代の欅坂46くらいだと思う。ライブにも行ったし握手会にも行った。熱狂的なファンではないかもしれないが自分の「好き」を形にできたとは思う。しかし、この推し活も急に終わった。欅坂46側の変遷のせいもあるのかもしれないが、とある日の全国握手会で一切笑えなかった。持参したペンライトを近くにいたペンライト未所持の方に渡して帰路に就いた。これが5年前程度の出来事である。ここからの私はゲームをすることはあれど、「推し活」としての何かが一切発展することはなかった。
この理由を考えたが、私の「好き」は瞬間的な1シーンに対して発生し、継続しないからだと考えた。
わかりにくい表現のため、曲を例えにしてみたい。
私自身、曲を聞くのはかなり好きでK-POPからJ-POP、サブカル系まで貪欲に何でも聞くが、好きな歌手は存在しないが、好きな曲は無数に存在する。
TWICEの「YES or YES」はSSランク級に好きだが、「What is LOVE?」はAランクかなといった感じだ。これは全グループで発生している。これでは100点のなにかは一生生まれてこない。「推し活」はん?と思ったところさえもプラスに変える魔力がある。私にはその魔法が効かず、淡々と+と-の両方を積み重ねている。
「推し活」は人をアクティブにさせる。この場合の「推し活」は「趣味」と言い換えてもいいだろう。そういう意味では私は趣味がない。ゲームや音楽鑑賞が趣味といい誤魔化すことは多いが、無表情に淡々と行っているに過ぎない。
コミケで見たあのまぶしい笑顔を思い出すたびにまるで人生を否定されたかのような錯覚に陥った。あー、これこそ趣味を頑張る人の姿か、と心の底から思わされた。

推し活という名の趣味であり、人によって表現方法が違う。なんて素晴らしいことなんだろう。その輪の中に入り込む方法を私はまだわかっていない。

誰か助けてほしい。口を開けて待っていれば推しは現れるのか?自分から推しを探しに行くものなのか?私には何もわからない。
時代に置いて行かれたような疎外感から救ってほしい。


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