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地獄と理科と道徳と 前編①

あらすじ

 とある研究所に務める碌間ろくまちづは、不自然に閑散とした職場で部外者の女と出会う。女は自分がそこにいる理由を語る代わりにナイフを振るった。唐突に斬り付けられたちづは、逃走しながら理由を考える。が、心当たりが多すぎて特定には至らない。
 逃走の途中、ちづは車で事故を起こして気を失ってしまう。目が覚めると、何故か助手席に置かれていた拳銃を手に取り、近くの高校へと逃げ込む。生徒を巻き込む可能性を一切考慮しない最低な行いとも言えるが、他人のことなどどうでもいいちづは、お構いなしに教室に侵入する。そこで、ちづは女と対峙する。女が人間ではないと知りもせずに。




本文


 その大仰な自動ドアが嫌いだった。どうせ誰でも通すくせに佇まいだけは立派で、小綺麗で。その奥には本当に人を選ぶ扉が待っていて、その構造も何もかもが腹立たしい。これがただの八つ当たりだということは理解している。私が本当に嫌いなのは研究所の入口などではない。自分の仕事だ。いや、仕事をしなければならない自分の境遇と言えるだろう。
 あまりにもかったるい入退室システムをクリアすると、カードを手放す。首からぶら下げたストラップのおかげでそいつは私の所有物であり続ける。失くしたら再発行の手続きが面倒だから、三度目の再発行を期にネット通販で世界で一番ダサいネックレスを買うことにした。本来ならカードと一緒に施設側が用意するものだろうが、私以外の研究員は同じデザインのそれを使ってるから、おそらく私が失くしてるだけだろう。
 元々ズボラだという自覚はあるものの、最近は特に「妙な夢を見た気がする」という確信の持てない違和感に振り回されて、身の回りのことが余計に適当になっている。寝た気がしない、ただそれだけのことをこれほど気にかけるのはまともではない。しかしそれを同僚に話したりはしない。この研究所にまともな奴なんていないから。まるでまともじゃないことが入所の条件になっているように、変わり者しか所属していない。人に貸した金が本当に返ってくると思っている奴が数人と、ここでしか会わないくせに仕事以外のことにまで口出ししてくる奴が数人。あと、雑談が多い馬鹿共。学生時代の知人なんてとうに縁が切れている私も、きっと奴らから見ればまともじゃないのだろう。まともじゃない奴がまともじゃない奴にまともじゃない相談をする。その構図が客観的に見てこれ以上ないほど滑稽だと思うから、私がこの悩みを同僚に共有する日は来ないと断言できる。
 廊下の途中で右に曲がり、部屋に入った。自分のロッカーに荷物を入れて上着を脱ぐ。眼鏡を仕事用に掛け替えて、白衣を羽織る。私以外に人は居ない。出社時間はとっくに過ぎているので当然だ。更衣室で一人着替えることには慣れているから何とも思わないが、他人の気配が嫌いだから着替えをする時間帯が被るのは、想像するだけで虫酸が走る。白衣に袖を通す時、隣の女に当たらないように注意するだなんてご免だ。

「はぁ……」

 適当に着替えを済ませて更衣室を出る。いくつかのセクションに分かれた研究所の中で、私は自分の通行が許されている区画に足を運ぶ。ちなみに、ここで研究されていることの全容を知る者はほとんど居ない。セキュリティ上の問題であるという説明だが、そんなことを鵜呑みにしているのは雑談が多い種類の馬鹿だけだろう。知られると都合が悪いことをしているらしいということは理解しているが、研究の善悪など私にとっては二週間前に食べた昼食よりもどうでもいいことだ。
 扉の上から私を見下ろす単眼は、無機質な声でスピーカーを通して私に語りかけてくる。曰く、IDナンバーと名前を言えということだ。私が足を向けた研究室には、私と他数名の同僚のデスクが並んでおり、その日初めて入室するときだけこのように声を発することを強要される。

「035、碌間ろくまちづ」

 職場という空間によくもこれほど不愉快な要素を詰め込めるものだと感心するくらいに、この建物で行なわれることはどれもこれも何もかもが癪に障る。こうして私はまんまと起床後の第一声を機械に取り込まれ、直後に身体も研究室へと取り込まれることとなる。

「……ん?」

 ロックが解除されたドアの戸先に軽く触れると、小さな機械音と共に扉がスライドする。頭の中は、昨日仕込んでおいた素材の経過監察だとか報告書についてだとか、早めに済ませておいた方がいいものを順序良く並べることで埋まっていた。が、研究室に入って妙な光景を目の当たりにした瞬間、その辺のことが少し飛んだ。

「……今日、休み?」

 可能性としては有り得る。私のようなズボラな人間が祝日を見落とすことくらい。しかし、私の人間性を計算に入れると話は違ってくる。忘れたのが出勤日であるなら、確実に私のズボラさに起因するものだと断言できるだろう。ところが、私は仕事が嫌いで、ぶらぶらと一人で飲みに行くのが好きなタイプのズボラである。私が、不覚にも休みだというのに出社してしまうことなど、有り得ないのだ。
 今日、休み? なんて、白々しい。そんな筈がない。他者にドッキリを仕掛けようと提案する残念な輩がいたとして、私がターゲットになることは考えにくいだろう。それほど職場の人間とつるんでいないのだから。関係性が構築されていない人間に対してする悪ふざけは所謂イジメと呼ばれると認識しているが、大の大人が職務を放棄してイジメに勤しむなど、低レベル過ぎて可能性として視野に入れたくない。
 同僚達のデスクの上はそれぞれ個性的にほとんどが散らかっている。何を置いてもいいと言われてはいるが、フィギュアを置いてる奴までいるくらい、うちの職場のデスクの上はカオスだ。

「よりにもよって美少女フィギュアって……」

 デスクの端に鎮座する美少女のすぐ横には、他の同僚の資料がうず高く積まれている。私はデスクをパーテーションで区切っているので、他人の机をこれほどまじまじと見たのは初めてだ。フィギュアと目が合った瞬間、声がした。

「やっほー」

 変な声を上げそうになって、声を抑える代わりに目を見開く。まるであの無機物に声を掛けられたようだと思ってしまうあたり、私は本当に疲れている。

「美少女が、喋った……? いやまさか」

 人の気配が無いと思ったばかりなのに。声の主を探して視線を彷徨わせようとして、視界の端に揺れる青い髪に気が付く。非現実的な、空のような青さだった。

「……なんですか。あなた」
「もっとびっくりしないの? モノが喋ったって」
「隣に部外者が立っていることの方が驚きですから」
「確かにー」

 私の隣には、変な女がいる。こちらを覗き込むように、様子を窺うように、それでいてどこか馬鹿にして煽っているようにも感じる。あまりこういう言い方をすると自分が年増になったみたいで気に食わないが、つい小娘と呼んでやりたくなる風体でいる。部外者と決めつけてみても、否定する素振りを見せずに笑みを浮かべている。顔は間違いなく整っているというのに、どうにも不気味だった。
 最初の声は、確かに正面からしたはずだ。真横から聞こえる声を勘違いするはずがない。理由を考えようとしたけど、すぐに辞めた。この正体不明の女が、私を退屈させてくれるとは思えないからだ。

「どうやったか分かりませんが、不法侵入ですよね? 警備呼びますよ」
「人居ないじゃん」
「呼べば来ます」

 何故なら、それが警備というものだから。平日の日中に居ない警備なんて聞いたことがない。無駄な問答が嫌いな私は、非常ボタンのある壁へと近付く。追い縋ることなく、女はそんな私の背中に声を掛けた。

「ここのID持ってるもん。ほら」
「はぁ……? あ」

 女の手には私の写真が入ったIDカードがあった。反射して見にくいけど、金色の長髪は明らかに私である。私のこのスタイルが所内で一般的であるなら、こんなに研究所で浮いていない。どう思われようとどうでもいいからほっといているが。
 ID番号を照会すれば一度目に失くしたものか、二度目に失くしたものかの判別がつくだろうけど、気になっていないからそれもどうでもいい。こいつが私のそれを拾ったと仮定しても疑問はまだある。

「それで入れるのは入口までです。このラボに入るには顔・声帯認証システムを突破しなければなりません」
「あたしら、顔も声も似てるでしょ」
「双子ですら誤認しないシステムを騙せるとでも?」

 あと、はっきり言って似てない。背格好も、顔のタイプも何もかもが。全てのパーツが私達が別人であることを示している。言ってしまえば、別に認証装置などに頼らなくても間違える人などいないと断言できるほどに、とにかく似ていない。
 問答することすら疲れてきた。そして何故か右脚だけが重い。べちゃべちゃとして脚を取られるような感触に、大量のガムでも踏んだような錯覚に陥る。確認していないが、錯覚と言い切った。当然だ、職場の床にガムを吐き捨てるような低能が流石にこの研究所に務める資格がない。

「あーらら。どうする? 始める?」
「はい?」
「待ってもいいけど。それがどうにかなるまで」
「……?」

 それと言いながら彼女が指したのは私の右脚だった。見た目は何の変哲もないのに、女がそれを言い当てたことを不審に思ったが、訊いてもくだらない言葉が返ってくることは先の問答で思い知っている。こんなものどうとでもなると言うように脚を動かすと、明らかに何かに引っ張られているような強い違和感があった。
 人類にとって知見の無い現象を解き明かすのが仕事である私は、こういったオカルト的なものを受け止めるのがあまり得意ではない。恐がりならそろそろオバケの仕業だと言って騒ぎ始めるのかもしれないが、そんなことはしたくない。ただ、どうしていいか分からずに、何度も脚を引っ張るように動かすのみである。滑稽な光景であることは認めよう。しかし、このいつ解けるか分からない謎の呪縛を相手にしながらでも、声を掛けるくらいはできる。

「別に。勝手に始めて下さい。何をするのか知りませんが」

 彼女が何物であるか、興味が失せてきた。泥棒だとしても私に盗まれて困るものなどない。今日はまだ誰からも金を借りていないのだから。
 自分の研究データであっても、ただの仕事だと割り切っている。給料さえ貰えればどうだっていい。人もいないことだし、この意味の分からない右脚の似非金縛りが解けた暁には帰宅しようと思う。私が出社したという証拠はIDをかざした時に記録されているはずだ。
 会社を出てからどこに寄ろうか、そんなことを考え始めた私の頭が、一気に覚醒した。それは、本能的に死の危険を感じたからである。

「避けれてえらい!」
「……!」

 笑顔。ナイフ。一切の加減無く振られた腕。
 頭が目の当たりにしたことを細切れに処理していく。自分の右脚を掴んでいた何かは消えたらしく、私の腕に惨めな防御創が付くより先に、バランスを崩して転倒した。お陰で斬撃を避けることができた。着地は肘からいった気がするが、痛みなど感じない。恐怖も、実を言うと感じなかった。あまりにも現実味の無い危機に対し、私はただ淡々と対処しようとしている。
 無様に転がった体を、可及的速やかに起こして駆け出す。名前も知らない女は笑い声を上げながらついてきた。デスクを挟んで位置することにより、ほんの少し稼げていたマージンはすぐに無に帰した。女が躊躇なくデスクの上に登り、小さな障害物を蹴り飛ばしながらこちらへと駆けてきたからである。

「なっ……」

 なんなんだ、本当に。声を発する間すら惜しい。なんといっても相手は、何故か私のIDを持つ猟奇的な女だ。私を狙う理由は分からないが、IDのことといい、自覚が無いだけで何かしらの接点があるのかもしれない。無かったとしても、金を借りた誰かの差金であることも考えられる。要するに、全く特定できない。
 ガラスで区切られた区画に駆け込むと、テーブルの上に置かれていたビーカーやフラスコが目に付いた。考えている暇はない。それらを適当に掴んで後ろに投げ付けた。いくら研究所とはいえ、触れれば危険な液体を無人で放置しておく筈がない。私には分かっている、あれらは人畜無害な何かであると。しかし、事情を知らない人間はどうだろう。何の知識も無ければ一瞬は怯むはず。そうでなければおかしい。私は効果のほどを確認するため、女から離れるように脚を動かしながら振り返った。

「待ってよ〜」
「……!?」

 女には動揺する様子すら無かった。運良く命中したはずのビーカーを手で払い退け、身体にいくらか付着した液体を気にも掛けずに進んでくる。
 あぁ、本当に頭がおかしいんだ。元々まともだなんて思っていなかったが、異常さを改めて目の当たりにした私は、再び駆け出した。もう振り返ることはない。物理的に足止めできそうだと判断したらドアを閉めて移動したが、それでも距離を稼げている気はしない。背後で鳴る音の種類が、ドアの材質によって変わるだけだ。バキッ、か、ガシャーン。後ろで起こっていることは分からないが、見ても現状は何も変わらない。
 とにかく建物から出るべきだ。保管されている触れるべきではないもの達に、あの女は何の感慨もなく触れる気がした。来た道を戻るだけだと言うのに、いつもは帰宅できることに浮き足立って通る道なのに。

「……っこの!」

 息切れを起こしながら、だけど足を止めることはせず、壁に据え付けられた非常ベルを叩く。これみよがしに赤く灯るランプの下の固いボタンを押した感触はあったのに、事態は何も変わらなかった。警備が来た結果、女に返り打ちにされたとかではなく、本当に何も。警報音が鳴ることもなく、ランプの横にぶつぶつと開いている穴から人の声がすることもなく。あれを押した時にどうなるのか、押したことがなかったので知りはしないが、状況から見て不通であると言わざるを得ないだろう。

「なんなんだ、本当に……!」

 更衣室など当然素通りである。早めに首から下げているIDを掴み、ロスの無いようにリーダーにIDを当ててやる。少々乱暴になったが、壊れてなければどうでもいい。ドアがもったりとした動作で開いて、開き切る前に隙間を抜ける。そうしてやっとの思いで研究所の受付まで辿り着いた。
 大嫌いだと思っていた自動ドアにほっとさせられる日が来るとは。日々の運動不足が祟って痛む横っ腹を恨めしく思いながら、今の自分にできる全速力でドアを目指す。開かなかったらどうしよう、という考えにくいことを不安に思う程度には、今の私は弱っている。

「よかった……え」

 足を止めている余裕などないと言うのに。いや、足を動かす体力的余裕もないのだが。だけどどこかに逃げなければならないはずの私が、足を止めた。
 何故ならば、誰もいなかったから。誰もいない。本当に、誰も。走る車すらない。それは都市にあるまじき光景だった。

「どう、なって……」

 どうにかしてしまったのは間違いない。ここは日本の都市で、深夜であっても人通りや道路を走る車がゼロになることはないはず。人間が放つ騒音が一切消えた都市の静けさに鳥肌が立つ。背後では、気配が迫っている。
 訳も分からぬまま、私は再び動き出した。時間にして、長く見積もっても十秒そこらだろう、止まっていたのは。体力が回復するような暇はない。駆け出すと同時に、疲労を感じて息が詰まる。路肩に停まっている車に違和感があり、その正体にはすぐに気付いた。エンジンが掛かっている。運転手はすぐに戻ってくるつもりだったのかもしれない。

「運が悪かったのはお前じゃない。私だ」

 どういう理由かは分からないけど、お前はこの場所からまんまと逃げおおせることができたのだから。
 車の持ち主に恨み事を言うと、私は運転席のドアを握った。確かな感触があって、ドアが開く。ほっとする間も無く乗り込むと、助手席の窓からあの女が見えた。凶器が太陽の光を反射させて、自己主張しているようである。車で逃げられると都合が悪いのか、愛くるしい顔が怒りで歪んでいるように見えた。
 私は勘で足元のペダルを踏む。車は急発進で動き出す。勢いが強かったのか、思ったよりも音が鳴って驚いた。免許などは持っていない。経験といえば、遠い昔にゴーカートに乗ったことがあるくらいだろうか。こんな訳の分からない死に方をしたくない、その気持ちが私に様々な無茶を実行させていた。

(続く)



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