自分本位

誰にも打ち明けられない話をしていいですか。
友達にもみっともなくて言えなかった。


今年の3月、母が自殺しようとした。
これが初めてではない。
今年の1月にも薬をたくさん飲もうとした。
母が遺書として書いた紙は無印良品のカレンダーの裏紙で母が毎年買ってくるものだった。母はそれを雑記帳として使っていた。
そこに書かれた母の字はいつもの丁寧に書かれた文字ではなく、線がゆらゆらとした頼りない文字だった。母は几帳面な人で〜して下さい。とか絶対に漢字に直して書くのに大じょうぶと言った具合に全く様子が異なっていた。
ああ母は疲れてたんだなと感じた。
こみ上げてきたのはこんなにしょうもないことをしないでくれという怒りだった。
なんで自分は自分本位にしか感じられないのかと悲しくなった。なんだか放心状態で出てきた感情がシンプルでびっくりしたのだ。

私は両親に愛されて育ってきたという自負がいつでも私の裏付けとなってきた。母が自殺しようとしたことで私の確固たる自信が揺らいでしまった。
母は私のことを1番に考えてくれると思っていたのだ。そんなことなかった。母も1人の人間だったのだ。そのことに気付き、悲しくなった。母が私のことを守ってくれると心のどこかで気づいた。そしてまだまだ自分は自立できてないことに気づいた。

母は味がわからないとある日言った。料理が上手で甘い物に目がない専業主婦の母は日々の楽しみを見失った。
そこからみるみるうちに調子が悪くなり、ご飯が美味しくないとガリガリに痩せた。その次は味がわからないからどんな味か知りたいとお菓子を口に詰め込み、ブクブクと太った。20キロの増減はあったのではないか。毎日、食べ物に執着して同じ話を繰り返すようになった。

人間って一つおかしくなると全ての歯車が狂い出すのだと思った。

私は母にどう向き合っていったらいいのかわからない。
母のことが大切だ。いつも1番の味方になってくれた。だからこそ母の調子を治すためにできることならなんでもしようと思った。
しかし、母の調子が悪くなって2年間治る兆しはまだ見えない。
私が一口食べ物を口にするたび、これはどういう味なのか、美味しいのかと聞いてくる。友達と遊びに行こうとすると「ママは外に出かけたりできないのにいいよね。」と不平を言う。
なんだか疲れてしまった。

ある日我慢しきれず、ぽろぽろと泣きながら母の姉である叔母に相談した。
「もう本当にしんどい。でもママが死ぬのが怖い。毎日不安でたまらない。」と私が言った。
「もう自分の好きなように生きていいんだよ。自分の人生なんだから。もし万が一、ママが死ぬことが起きたとしても、もう仕方がない。私たちはできる限りのことを精一杯したんだよ。私たちが悪かったとかではなくてママが死を自ら選択したんだよ。ママがしたいようにした結果がこれだと思うしかない。」と叔母は言った。
叔母はいつも母の病院に連れて行ったり、ご飯を差し入れしたり、支えてくれる。いつもそこまで親身になってしてくれる叔母がそのように割り切るしかないと言っていることがもうそういう覚悟をしなきゃいけない段階に来ているんだと分かった。

私は母を父に任せて自分のしたいようにすればいいのか、母を支えるのが家族が存在する意味なのか。
いくら考えても答えは出ない。私はわがままだから、自分本位な人間だから、早く抜け出して1人になりたいと思っている。
私は逃げ出せば母のことを捨てたことになるんではないか、後悔の念に苛まれるのではないか。
こんなふうにいろんな考えが交錯して答えが出ない。

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