ある種の愛がわからない話
人が(主に)人に対して思うことって色々ありますでしょう
肯定的だったり否定的だったり好意的だったり嫌悪を抱いたり受け入れたり受け入れなかったり
ね、色々あります
時代の転換期を生きたのです、我々は
今ではよくある感じの複雑さを持つおうちに暮らしていて、でも昔は、私が幼い頃はかなり昭和寄りと申しますか
賢くない子はうちの子じゃない、みたいな
頭にゲンコツ尻に平手、ひょっとしちゃえば締め出され、茶碗は捨てられ怒鳴りまくられ、
みたいな感じだったのです
その影響じゃないかなー、と、思うのですが、親からの愛というものがよくわからんのです
拗らせちゃって
私は普通に生きて賢くいなければいてはいけないのだけど、下のきょうだいは全然違うように育てられている、という感覚
賢くあれと言うわりに学に投資はしてくれないところを根に持っていたり
奔放に生きている下のきょうだいをどこか羨んだりといった部分もありますけれども
結局のところ、普通に育った子供、というのがひとつほしい、私はそれだけでかこわれているのではないかなあと
叱るんですよ、気晴らしに外を一人で歩くと
夜なのがいけないらしいのですが
私がどれだけ心配するかわからないの、と言うのです
心配している、と言葉にして言われるから知ってはいますけれど、はい、わかりません
あなたが私を心配するのは、私ではなくてあなたの子供を心配しているのでしょう、と思うのです
昔からずっとそう思っています
特に努力もなく勉学のできが良かった私は、昔はよく褒めてもらいました
よく言われた褒め言葉は
あなたは私の自慢の娘
でした
一つか二つ前の記事も読んでいただけた方にはもうひとつのひっかかりも伝わるかもしれませんが、
私は 『自慢の』『娘』でないと褒めてもらえなかったのです
今もそう、というか今は特に褒められませんが(きっともう自慢ではないので)
いや、そりゃあ、心配にもなるでしょうね、自慢の? 娘が? 夜中に出歩くようになれば??
卑屈だなあと思われるでしょう
でも私には、もうこのようにしか聞こえないのです
嫌だと言っても泣いても考えても話しても何も受け入れられなかった
褒めてもらうことが何より大切で、怒られることが何より嫌だった
世界の中心を作り上げる前に、親に奪われてしまった
今、これらの意識から抜け出したいと思っています
あなたの身に何かあったらと、親は心配になるのだと言われますが、これが一番ピンときません
だって、ねえ
もう賢くもなくなった娘のことをどうしてそういつまでも閉じ込めておきたがるのでしょう
私はあなたから自由になりたかった
自由になりたい
幼い頃から私の心の奥底には、褒めてもらえないことには意味が無く、やる気が起きないような刷り込みがなされているのだろうと思います
でも私はもう私を生きたくなった
あなたの言うことをもう聞き入れたくない
こういう心も理解を妨げているのかもしれません
親というものが持つ愛の
親の言葉が空っぽに聞こえるようになってから、もう10年ほど経ちます
もうきっと、彼らの言葉は私には届きません
他にも色々ありましたから
お互いに、ずっとわからないままでしょう
わからないまま死ぬでしょう
友人のことなら愛せます
彼らは私にたくさんのことを教えてくれますが、私を本気で変えたり歪めようとはしない
私も彼らに色々なことを伝えますが、それをどう受け止めるか、流して生きるかは彼らの自由だと思っています
互いに考える余地があり、支え合っても手をとる程度で互いに自立している
だから、愛しています
これがもし自分の社会的立場に関わってくる関係、恋人や家族なら、私もきっと彼らと同じように自分の許容できる範囲まで他人を歪めようとしてしまうだろうと感じます
遺伝と環境の力を強く信じているから
友人との関わり方に近い自由があらわれない限り、私は彼らを愛せないし、彼らに愛されたことがわからない限り、私は友人以外の大切な関係を築くことはできないでしょう
だから私はひとりで良いのかもしれません
散らかった文ですみません
今日はここまでにします
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