ものを観る眼

昨日は夕焼けが綺麗だった。
炎のような空だった。

ちょっと加工してるけど。アプリは使ってない。

また傘を無くした。
今回は遮光100%の折りたたみ傘。

「わたし昔から傘との相性悪いんだよなー」

出先に置いてくる、盗られるはもちろん、自転車に巻き込んでぐちゃぐちゃになったこともある。
傘とは仲良くなれない。

多分今回はこの前乗った高速バスに落ちちゃってんだけど、まだ電話してない。電話って一踏ん張りいる、デジタルネイティブ世代

でもこれ、傘に限ったことではなく、私はとにかく物持ちが悪い。物に対する思い入れがない。
失くしたとしても、「まあ誰かが使ってるならいっかー」となる。モノだけじゃなくて、お金とかもそう。1000円ぐらいまでだったら、「そういう運命だったのよ、最初から」と開き直ってしまう。

・・・だけど本当は、落ち込みたくないからそうやって自分を納得させてるだけなのだ。落ち込んだり怒ったりすることは一気に消耗する。自分のこととなるとなおさらだ。

そして、課題はもう一つあって、物を使うときの主体性がまるで無いこと。基本「使えればいい」、服も「おかしくなければいい」。もちろん、これいいなー、こういうのがいいなーって思うこともあるけど、80%ぐらいはお金の問題で「妥協」する。
どういう基準を持って、どういう観点を持ってモノを評価したらいいんだろう・・・

一言で言えば「モノを観る眼」が全く育ってないのだなと、最近気づいた。
なんとなくいい、なんとなく惹かれる、その「なんとなく」を全く追求してこようとしなかった。
「なんとなく」の追求をめんどくさがってここまで来てしまった。23歳。

23にもなって。

だけどまだ23で気づけて良かったのかもしれない。

自分が満足するためだけだったらいいのかもしれない。だけど、誰かがこだわりをもって作った、そのこだわり、かけた時間、手間を解るようになりたい。なにがいいのか、作り手はどこに重きを置いてつくったんだろう、何を伝えたかったのだろう。
カタチをもたせて何かを生み出した人たちは、自分のためだけに作っているのではないだろう。

そこにかけられた思いを、私は自分が満足するためだけに、自分がいい気持ちになるだけに「消費」してしまうのか。
モノを観る行為ひとつを取っても、自分の都合の良いように消費してしまうのか、社会に還元できるのか。
そこにかけた人々の想いは、決してなにか形として残る作品だけではなく、日々の生活にもつながっているはず。

私たちと同じように日々働き、自分の手で暮らしをつくり、その同じ手で誰かの暮らしを支える人たちと、もっと心から解って生きていくために。

ものを見る眼をもっと育てねば、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?