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ちくわ

知らない間に1日が終わっていくな、と思う。

時間というものが、誰の人生にも関係なく切り離された概念として淡々とまっすぐに伸びた線の上を進んでいて、自分はその様子をしっかり見ていたつもりなのにいつの間にか、眠ってしまっていたような。これまでと同じ長さの時間を過ごしているはずなのに、なんとなく繰り返している日々が長くも短くも感じられる。あれ、そもそも生きるってこんな感じだったっけ。

それをいいとも悪いとも思わなくて、というより、自分が何を感じて何を考えていてどうしたいのか、よくわからない。心の中ではたしかに感じているはずなのに、言葉にしようとするとシャボン玉のように簡単に弾けてしまう。かたち自体は存在しているのに、それはとっても薄い膜に覆われていて中身も空洞でしかないようだ。

受験期や忙しさに追われている時に感じるような疾走感とはまた別のもので、なんとかその日に意味づけをしないとその日が存在したことさえ忘れてしまいそうになる。

いつの間にかそんな曖昧さを色濃くまとっていることに気づいて、でももともと自分はそんな人間だったのかもしれない、今まで気づいていなかっただけなのかも。きっと今大きな選択を迫られたとて、納得も何もしないうちに決めてしまって安心も後悔もできない気がする。

意味づけをしようとしないと意味が見出せなくなったのを感じて、自分の思いは言語化できないのに意味ばかり求めていることにも気づく。きっと意味なんてなくてもいいはずなのに、言葉になんかしなくてもいいはずなのに、だってそうしてしまったらそれ以上のものがなくなってしまう。

そんなことは誰よりもわかっているはずなのに、訳もなく焦っている自分と1日のうちに何度も対峙している。

私の母は、ちくわの味を「暇くさい味」と表現する。はじめてそれを聞いた時、なんやこの人、と思った。食べ物食べてて暇ってなんやねん、と思った。と同時に、あまりに素直な感想すぎて笑ってしまった。好きだな、と思った。

今こんなことを思い出したのは、私が最近感じている感覚がそれに近いような気がしたからだ。ちくわをむさぼりながら、「暇くさい味だね」と楽しくも悲しくもなさそうな顔で呟く母が私が過ごす日々のこともそんな風に表現してしまう気がした。本当にそんなこと言われたら全力で腹を立ててしまう自信しかないけれど。

終着点を見失って結局はひとつも意味をなしていないこの文章はどこかにたどり着いたりするのだろうか。そもそもたどり着いているのに、私が気づいていないだけなのだろうか。少なくとも、さっき頭に浮かんだ母は「なんとかなるっしょ」と言っているので、もう少しこの時間の先を待ってみることにする。

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