あったかもしれない日記#4

こんなことがあったかもしれない。

マンションの隣室の住人が引っ越すらしいというので様子を覗いていたら、いつの間にやら手伝う羽目になってしまっていた。

玄関を開けてみて一目でわかった。なるほど、隣室に住みながらろくに挨拶もしたことがない間柄の私を恃むのも頷ける。
引越し業者が来る当日だというのに、ろくな荷造りも終わっておらず、飲み終えたペットボトルや作りかけのジグソーパズル、編みかけのハワイアンキルト、食べかけのカップ麺など雑多なゴミが床を占領しており、まずはごみ捨てを行うところからはじめなければならない有様だった。
「……本当に助かります。ありがとうございます」
隣人は私好みの、やや陰鬱な血相をした豊満な肉体をたたえていた。
そこに絆されてしまったのが祟ったと気づく頃にはもう抜き差しならないほど引越しに巻き込まれてしまっていて、私の休日は破滅的な状態に陥っていた。
そもそも、本当に今日引越しをするつもりだったのかも疑わしい。その体格通りと言うべきか、のろのろと動く隣人を尻目に、私は極力手早く片付けと荷造りを進めた。

しかし、午前中かかって片付いたのはキッチンとリビングだけで、私の家と同じ1LDKの間取りであるからには、起居に使っている部屋が一室残されていることになる。
「業者はいつごろ来るんですか」
「さあ……今日のうちという話でしたけれど……」
「いつ新居にいけるか分からないで引越しなんてよくできましたね」
「はい、すみません……」
隣人の色白な頬の上を涙が滑り落ちていく。泣かせるつもりはなかった私は大いに慌てた。
「とりあえず、あなたの部屋も片付けましょう。普通引越し業者なんて午前中のうちに来るものですけれどね」
そう言って、私が隣人の寝室のドアを開けようとすると、びくつきながら私を引き止めてくる。
「あ、あの」
「なんですか」
「部屋、入ったら、絶対に天井は見ないでください。隅の方が視界に入るのはいいんですけれど、首を上げて見上げないでください」
意味が分からない。ここでまごついていても仕方がないのでドアを開ける。

部屋の中はチリ一つなかった。磨き上げられたフローリングの床の上には調度というべき調度は置かれず、これがさっきのゴミ溜めのようなリビングの住人の寝室だとは思えなかった。
それなのに、カップ麺やコンビニ弁当の空き容器すら堆積していたリビングよりも、ずっと不愉快な、気色の悪い臭いが漂っていた。
「何にもないじゃないですか」
そう言って、部屋を見渡そうとした私の首根っこを、隣人が尋常ならざる速度で抑えた。
「絶対に、天井を、見ないでください」
今にも消え入りそうな声で、それだけを言った。
私は首の動きだけで頷いた。
「奥の押入れに衣装ケースがあるので、それを私が渡すからリビングへ運び出してください」
ここだけは急にてきぱきと、隣人が作業に取り掛かる。
まるでこの部屋にいる時間を極力縮めたいとでもいうかのように。
衣装ケースはやたらと大きく、しかもよく使われているようなプラスチック製のそれではなく、やたらに重たい桐のような木材で作られていた。
一つ、二つ、三つと、尋常ならざる重さのケースを運び出していく。重さのせいか、急に時間の進みが遅く感じる。まるで沼の中を遊泳しているかのように体が重たい。
「最後の一つです。落とさないようにしてください」
「はいはい」
と、隣人からケースを受け取る瞬間。私はひとつ前のケースをドアの外に送り出すために膝をついて低い重心でケースを押し出していたままの姿勢だった。
そのまま行李から衣装ケースを下ろした隣人の高さに目線を合わせようとした。してしまった。

見えてしまったのだ。天井が。
見上げるような形で、隣人の肩越しに。
私の瞳に映った天井の様子を見て、隣人が「あっ」と小さく叫ぶのが聞こえた。そのままそうするのが自然で避けがたい運命であるかのように、私の首に両手を伸ばしてきた。
獣のような強い力が、私の頸部をしめつけてくる。
「見てくれて、よかった」
隣人はそう言いながら、力は強くしていく。見る間に私の視界は狭まっていく。
この部屋の天井には何もなかった。単なる木目の天井が広がっているだけだ。
「見てくれたから、持っていけるので」
私の困惑に答えを差し出すような口ぶりだったが、狂った人間の論理など分かりはしない。
もはや抵抗もできない私の首を片手で抑えながら、衣装ケースと呼んでいた桐の箱の中へ押し込んでくる。
ケースの中には私の先住人と言うべきだろうか、肉の一部が腐敗し、あるいは骨が見えてるような死体が数体ほど詰め込まれていた。
首を絞められながら押し込まれた私の背中で、死体がぐちゅ、ぐちゅと泡立つように崩れていく感触がした。

「助かりました、ありがとう」
隣人の陰鬱な顔だちに、笑顔が花のように広がった。

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