2023年4月に観た映画
アカデミー賞ノミネート・受賞作品に配信限定作品に、春は新作が目白押し。
コナン映画は記事を既に書いているので除く。
最初におまけとして、ドラマシリーズの作品をひとつだけ。
リハーサル -ネイサンのやりすぎ予行演習-
現在U-NEXTでのみ観ることができるドラマシリーズだが、その衝撃的な内容からじわじわ話題になっているこの作品。
『エブエブ』の監督ダニエル・クワンも、本作を2022年のベストに挙げている。
誰かに大切なことを打ち明けるとき、重要なプレゼンをするときなどなど、人にはそれぞれ失敗が許されないタイミングというのがある。そんなとき、事前にセットを作り、相手役の俳優を準備し、何度も何度もリハーサルをすればきっと本番は上手くいくのでは?という噓みたいなアイデアを現実にやってしまおうという作品。
この世界にいる自分以外の人間も、この街の景色も実はすべて作られたもので…という手塚治虫『赤の他人』的な妄想は誰だって子供のころに一度はしたかもしれないが、それも少し思い出す。
最初は面白いこと考えるな、と比較的楽しく観進めることができるのだが、次第に観客は恐怖も覚えていくことになる。
「演技の演技の演技」にように何層にも重なるメタ構造にクラクラしてくるのだが、本作の巧妙なところは製作側がこれのどこまでが作り物なのかを明かしていないところだ。
個人的にこれはドキュメンタリーではなく完全にモキュメンタリーだろうと思ってはいるが、そうなると俳優陣(特に子役!)の演技が恐ろしい。あれはどうやって説明し、演技指導したのだろうか。
1話あたり約30分の全6話となっているのでそこまで時間はかからない。
既にシーズン2も決まっているようなので今から楽しみだ。
生きる LIVING
言わずと知れた黒澤明の名作『生きる』を、ロンドンを舞台にリメイクした作品。
まず驚くのはその上映時間で、黒澤版が143分あったのに対し、本作は103分となっている。『生きる』ってこんなに短くできたのか!と驚くが、だからといって本作が物足りなく感じたり、十分に描けていないということは決してない。
逆に言えば、黒澤版がかなりこってりじっくり描いているとも言える。
オリジナルで志村喬が演じていた主人公を今回演じるのは、英国俳優ビル・ナイ。
ジャック・スパロウと戦うタコ船長になったり、落ち目のロック・スターになったり、ミュウツーと一体化して力を得ようとしたり(これに出演するにあたりポケモンの本を読みまくって結構詳しくなったらしい)、これまでさまざまな作品に出演している彼だが、この『生きる LIVING』では、余命僅かとなった男の様々な心境を、ちょっとした表情の変化で表現している。
個人的にはトム・バークがとても良くて、もっと彼との絡みを見たかったくらい。独特な存在感やメフィスト感はやはりオリジナルの伊藤雄之助の方が強いのだが、この2人の間に流れる時間が好きだった。
物語の流れはほぼ同じで、改めてこの物語構成を考えた黒澤(&橋本忍)の偉大さも思い知る。
こってりじっくり感やちょっとしたユーモアがあるところも含め(オリジナルは主人公が自分が癌だと知るところすらちょっと「面白い」シーンにしているのが凄い)、より好きなのは黒澤版だが、とても意味のある良作リメイクである。
Winny
ネット史上最大の事件、とあるが私は全く知らなかったのでこの映画で初めて金子勇という人、そしてWinnyについて知ることができた。
いろいろなことがあったが、役者・東出昌大はやっぱり天才だなと思わされると同時に、当時の空気感も伝わる地道で堅実な法廷ドラマだ。
あくまで悪用する人物が悪いのであって、システムを作った人が罰せられるべきではない、という意思のもと、壇という弁護士が金子氏を救うべく立ち上がる。彼が逮捕された理屈で言うと、ナイフで人が刺された場合はナイフを作った人が、飲酒運転が横行していたら酒の製造者は逮捕されなければならない。
少し前に話題になった「漫画村」のようなものは、作った側も著作権侵害を分かったうえでやっていたはずなので、当然罰せられる対象になる。
決して「ネット民が正義」のような安易なオタク礼賛にはなっておらず、ネットの暗の面にも切り込む作品となっている。
金子氏が無罪を勝ち取ったのは、弁護士たちの尽力、そして金子氏自身がWinnyを信じていたからだ。もちろん、ネット民が彼を助けようと弁護費用をカンパし金銭的にも精神的にも支えていたという事実も描く。
東出昌大の演技もあり、金子氏は本当にプログラム一筋の天然愛されキャラだったんだなと物語の節々で感じる。だからこそ警察のいいようにされそうになり危ういのだが。
これは誰か特定の人物を悪とし告発するような物語ではない。
警察だって、騙してサインさせたりはもちろんタブーだが、彼らは彼らで自身の職務を全うしようとしていたのかもしれない。
まだネットというものがよく分からず、使わない人にとっては「なんか怖い、怪しいもの」だった時代の話だ。
彼が今も元気でプログラマーを続けていたら、なんてことはどうしても考えてしまう。
ザ・ホエール
今年のアカデミー賞で主演男優賞(ブレンダン・フレイザー)、メイクアップ・ヘアスタイリング賞を受賞した本作。
ブレンダン・フレイザー自身もわりとガタイがいいが、特殊メイクで体重272キロの男へと変貌を遂げている。
創作物の中で太ったキャラクターが出てくる場合、それを怪物のように描くことはファットフォビアにもなりかねないが、本作はそうならないギリギリのラインで描いていると思う。
病院へ行かず、ひとり家にこもり、看護師のケアを受けながらも何かを貪るように食べ続けるチャーリー。
美味しく味わって食べているというよりは、無心に何かを胃に運び続けているといった感じだ。
これはもしかしたら彼なりのゆっくりと時間をかけた自殺なのかもしれない。
彼は自身の過去を悔いており、自責の念にとらわれてもいる。いっそひと思いに、というよりはじりじりと時間をかけて自分を痛めつけているのかもしれない。
監督ダーレン・アロノフスキーの作品ではいつも、主人公が自らの肉体を犠牲にしながら自身を追い詰めるようなシーンがある。
恋、家族、宗教、文学、さまざまなものが結びつくこの物語は、誰かを救うこと、または自分自身を救うことの難しさを描いている。
これであの人を救えた、これで自分は救われた…と思ったとしても、それは自分のひとりよがりなものかもしれない、単なる妄想かもしれない。
人間というものは、結局自分のことだけを考えている勝手な生き物かもしれない。
それでも、かりそめかもしれないその「救い」に、生きた価値を見出すのだ。
SMILE
シンプルかつ大胆なプロモーションが恐怖を呼び話題となった本作。
笑みを浮かべながらこちらを見る女性、北斗の拳のような煽りキャッチコピー、ONLY IN CINEMASとアメリカ版ポスターにはあるが、残念ながら日本では配信スルーとなってしまった。
現在、アマゾンプライムやU-NEXTでレンタル視聴することができる。
「何か」を見てしまったら最後、呪いにかかりそれが伝染していく(自分が助かるためには誰かにうつさなくてはいけない)というのはホラーの定番でもあり、日本だとやはり『リング』を思い出すだろう。
『リング』の、この世の不気味を全て煮詰めたようなあの呪いのビデオは今観ても新鮮に恐怖を感じることができる。
「笑顔」という、一見恐怖とかマイナスの要素とは結び付かなさそうなものを恐怖の対象として見せ、主人公と観客をじわじわと追い詰めるこの作品だが、ホラーの楽しみ要素、ジャンプスケアもここぞという時にしっかり出てくる。
ジャンプスケアはあまりに多用すると品が無いし、「それは怖いんじゃなくて単に大きい音にびっくりしてるんだよ!」と観客が冷めてしまうのだが、本作ではいい塩梅だったと思う。
ニューロティック・ホラーならではの、主人公の言っていることが周りに信じてもらえないもどかしさも描かれる。
もっと笑顔ショッキング描写のバリエーションが多くあっても良かった気がするが、特に前半はハラハラしたのでGW中に家でワイワイ観るのにちょうどいいホラーだろう。
物語が終わってエンドロールに流れる曲のチョイスも絶妙な不穏さ。
いっそ潔くチャップリンのSmileを流してもよかった気がするが、それだとあまりにホアキン版『JOKER』になってしまうか。
AIR エア
ハリウッドの仲良しコンビ、ベン・アフレックとマット・デイモンが再びタッグを組み挑んだのは、ナイキのエア・ジョーダン誕生秘話。
自分の中では完全にバスケットシューズ=ナイキのイメージだったので、かつてはコンバースとアディダスに負けていたことは全く知らなかった。
当時、ナイキといえばランニングシューズで、バスケ部門はかなり小さくなっていた。数年前も駅伝で速い人がみんなナイキのピンク色のシューズを履いていたことがあったが、NBA選手がみんなナイキのシューズを履いているなど、想像もしない頃だったのだ。
そこでバスケ部門のソニーは、このまま周りと同じことをやっていても状況が変わらないと策を練り、まだNBAデビューすらしていない学生のマイケル・ジョーダンに目をつけ、彼に自分たちのシューズを履いてもらう、だけでなく、まず彼専用のシューズを作るところから始めたのだ。
そもそもナイキという大企業に勤めるエリートたちが、自分たちの頭脳と行動力、そのプロフェッショナルを駆使してJUST DO ITが過ぎるだろというくらいの熱意で希望を掴んでいく様に、思わずこちらも心が躍る。
ヴィオラ・デイヴィス演じるマイケル・ジョーダンの母親も凄い。本作ではあえてマイケル(役の俳優)の顔は映さない。あくまでこれはマイケル・ジョーダンの伝記映画ではなくナイキの物語だからなのかもしれない。その代わりに、母親が大きな印象を残す。
ベン・アフレックの映画力に、結末は誰がどうしたって知っている物語のはずなのに、「もしかしたら失敗するかもしれない」なんて思わずハラハラしてしまう。本作の白眉とも言える、終盤のスピーチシーンでの演出は絶対に映画でしか表現できないことだ。
80年代アメリカポップカルチャーへのリスペクトも多々あり、さまざまな80'sヒットソングが流れるのだが、観終わった頃、多くの日本在住観客の脳内では『ヘッドライト・テールライト』が流れていたかもしれない。
聖地には蜘蛛が巣を張る
『ボーダー 二つの世界』で世界に衝撃を与えたアリ・アッパシ監督の最新作。
『ボーダー』は北欧ノワールだったが、本作は監督の出身地であるイラン色の濃い作品となっている。
しかし本作はドイツ・スウェーデン・フランスの合作映画である。理由は言うまでもなく、この内容をイランで作ることができないからだ。
娼婦連続殺人事件をテーマにしているが、本作は犯人当てのミステリーではない。物語の序盤でとある男が急に登場し、この人は誰なんだろうと思いつつ観ていると、彼こそが連続殺人鬼であることが早々に明かされるのだ。
彼が犯行を重ねる様も並行して描かれるので、構成的には『ザ・バニシング -消失-』も近いかもしれない。
さすがアリ・アッパシ監督作ということで、サスペンスとしても一級品であり、その内容が投げかけてくるもの、そして止まることはないと思われる闇の連鎖に、鑑賞後の余韻はずしりと重い。
人が殺されているという状況にも関わらず、娼婦が消えることで町が浄化されると犯人を庇い崇拝する者が現れる。
娼婦を必要とする多くが男であれば、憎み殺すのも男であった。
彼らは決して、娼婦を利用した男たちを汚らわしく思ったり、憎むことはしない。
このような現象は、世界中どこの国でも起こることだろう。
本作について、イランと関わりのあるとされる者から「これを観た人はイランについて、イラン人について偏見を持ちかねない」という指摘もある。
しかし、まともな観客であれば、これはイランが特別変な国だからとか、宗教がやばいからだとか、そういった認識にはならないだろう。
これはどこの国でも、日本でも起こりうる事件、起こりうる現象だ。
たとえば『アクト・オブ・キリング』が公開された際は「インドネシアはこんな人ばかりじゃない」という声が上がったし、『万引き家族』が公開された際は「日本人がみんな万引きすると思われてしまう」という声が上がった。
自国のことになると「●●人はこんな人ばかりじゃない」「自分の周りにはこんな人はいない」と冷静に観れなくなってしまう気持ちは分からなくもないが、これは世界中の誰もが自分事として、自分の近所で起こりうることとして観ることにきっと意味があるのだ。でなければ、「物語」というものの存在意義は何なのだろう。
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