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合理的な疑問を演劇にも向けられるでしょうか #十二人の怒れる人々

久しぶりにガッツリと会話劇を観た気がしました。ギャグもなく、ヘンテコな笑いもなくただただ真面目に、不器用にぶつかる本当に無関係でランダムに選ばれた12人の物語。

あらすじ

父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く。
法廷に提出された証拠や証言は被告人である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していた。
全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ一人、陪審員 8 号だけが少年の無罪を主張する。
彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。
陪審員 8 号の熱意と理路整然とした推理によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れる。

http://www.airstudio.jp/agarage/top_240221g.html

2つの肝

今作で肝になるのが、「合理的な疑問」と「人間の不完全さ」であると思っています。
まず、しきりに口に出されていた「合理的な疑問」。これは自分にも大変覚えがあるし、普段の仕事や学校生活、様々なシーンで出会うことがあると思います。個人的な解釈は「論理を覆すレベルのクリティカルな疑問」です。私は理系なので、所謂照明における反例ではないか?という疑問。その検証というか、疑問潰しは数学の証明では必要不可欠なのです。物語的な視点で言えば、ミスリードに繋がる分岐点というべきでしょうか。
疑問というのは浮かんで当然なのですが、合理的でないものも沢山あります。私がよくケチをつける重箱の隅をつつくようなものは合理的ではありません。(なんでガムがキシリトールガムなんですかァ!とか、物語には関係ない)
ですが、有耶無耶にしてはいけない疑問。言語化するのは難しくとも、「なんとなくこのままじゃだめ」と思うものは大体が合理的な疑問だと思います。それを押し通した8号と押し殺した残り9人。おそらく在りたい姿と実際の人間の弱い姿の対比という構図がここにあったのでしょう。

そして物語が進むにつれ、段々と有罪派が無罪派になり、また有罪派になり。卓球のようにラリーが続きますが、最後に逆の1対9の構図になりほとんどが合理的な疑問を持ちました。それはまさに話しながら段々と言語化していき思考が整理されていく様でした。だからこそのアクションのない会話劇が映えるのでしょう。

そしてもう1つ、人間の不完全さ。
今作の登場人物は物語の大筋には直接関わりがなく、陪審員として選ばれたごく普通の一般人。取り調べのスペシャリストも、剣を振るうヒーローも、時を操る魔法使いもいない、ごくごく普通の人達。という意味では、普段の自分たちに近い存在として映し出されてるのではないでしょうか。
そして、職務を放棄した弁護士のように意見を無理やり押し通す有罪サイド。多分物語を推理する立場で観たら「悪」のカテゴリというか、大体負けキャラのポジションの人達なのですが、実際の社会ではこういう人たちは多くいますし、誰にでも思い当たる節があるでしょう。いわゆる「何を言うかではなく誰が言うか」問題ですねり

作中でも、自称「社会経験がある」10号が大きな声で恫喝するように意見を押し通すシーンが目につきました。特に少数派の8号の声はなかなか届かなかった。ですが、無罪派が正しいとは限りません。結局疑問を解決する描写もなく、その後どうなったかは分かりません。結局我々も合理的な疑問を持ったまま、観劇を終えるのです。

在りたい姿と実際の姿

先述の、疑問を出す8号と本当は思い描いていたけど出せなかった残り9人という構図。これは、今の社会でもよく見る構図ではないかと思います。日常生活で理不尽なことがあって、立ち向かうのはかっこいいなんて思うシーンはあります。(上司を殴っちゃうサラリーマンものとか)
でも実際は、それを飲み込む人の方が多いと思います。嫌だけど我慢したり、何か言ったら報復を恐れたり。今作でも、比較的マイルドな性格の人が鞍替えしました。8号の説明に納得がいき、毅然とした態度で鞍替えしたのは9号くらいでしょうか。2号、5号、6号のような強気でない人が意見を変えていくのは、普段から声を大にしていえずとも疑問を抱いているのがこういう人達だ。ということを示しているのかもしれません。

ターニングポイント

今作、「おや?」と思う自己矛盾を起こすシーンがありました。目撃者の老人の証言について、「『殺してやる』という声を聞いた老人の証言は正しい」としていた有罪サイドが、「15秒だなんて、爺さんの感覚が正しいわけが無い」と話したところ。ここに、「論理的な判断が出来ない」という印象を与える場面がおりました。そこからは、とんでも理論やレアケースを引っ張り出してさもそれが正しいと押し通す姿が、個人的にはすごくちっぽけな存在に見えてしまった。そして、そのちっぽけさはおそらく有罪サイドも分かっていたでしょう。でも、残ったのは気が強いタイプ。おそらくプライドが高く弱い自分を見せたくない。だから、自分を俯瞰して見て間違ってると思っていても認められずになんとか押し通そうとしている。ここが、人間らしさのつまるところでしょう。そして、その狭間で苦しむ姿が1番出てくるのが、最後まで抗った3号でしょう。彼女の持つ、理論では説明できない過去というエネルギーが、最後まで抗う要素でした。だから、完全無欠の有能な人として振舞ってはダメで、どこか背伸びして、無理をしている。自信満々ではなく後ろめたさの残る姿を見せなければならない。でもプライドが高く、意見負けしてはいけない。大変難しい役どころだと思いました。


1シチュエーションゆえの感情の揺れ動き

1シチュエーションの難しいところとして、時間経過を誤魔化すことが出来ないことが挙げられます。例えば、時間が飛んだら気持ちに変化が現れたなどは想像で補完できます。でも、今作のようなシチュエーションでは、いきなりご都合主義で意見を変えたように見えては質が下がってしまいます。その、心が動くポイントが「合理的な疑問」だったのでしょう。シンプルでわかりやすいきっかけだと思います。


演劇(界隈)に向けての「合理的な疑問」

さて、ここまては実生活における「合理的な疑問」について書きましたが、私自身が強く思ったのはこれでした。演劇でこの辺を思うことが多々あり「あの演出ってどういう意図なんでしょうか?」と疑問を投げかけることがあります。自分で理由を推察し、納得がいく結論に至れば出しませんが、意味不明なものは結構言っちゃいます。

例えばですが、ホワイトボードに赤ペンで字を書く。これ、教育現場では本当は避けた方がいいんですよ。なぜなら色盲で赤と黒の判別がつかない人もいるからです。なので、重要度を変えるならそこは垢ではなく青色なのかなと思いました。こんな疑問です。おそらく、アンサーとしてありえるなら「日常生活でそこまで考えて文字を書く人はどれだけいるだろうか」という点です。あそこに集まっているのは素人達。教育現場の人物はいません。であれば、何色を使っても自然な演出となる訳です。こうなると、どっちが正解とかはないです。(黒板だと赤は見えにくいので、やめた方がいいという合理的な理由はある)
今作は、そういった完璧じゃない人間達を映し出しているのでそれでよいです。もしあの中に完璧主義者(金田一少年の明智警視のような人)がいたら、多分もっと強くNGを言い渡したと思います。
また、既存のルールが違うもの(野球のセオリーやルールがめちゃくちゃな漫画)や、「フィクションだから」で押し通すような演出などはあまり好きではないのなど、しっくりくる説明がほぼないのを分かっていてつっこむことはあります。過去には、怖いシリアスなシーンなのに笑いが起こるような演出が急に入って理解が出来ず。ということもありました。

それくらい、良い作品になるためには「ここってこうじゃないの?」という疑問を解消することが必要なのだと私自身は思います。そのためには、やっぱり色んな人の目に晒して、色んな感想を見ることで先のような疑問を潰すような演出が出てくると思います。
反面、「うるせえな」みたいに、それこそ10号のように疑問を吟味せずに終了させるようなことがあったら、うーん…と思ってしまいます。作中で、結構ヘイトが溜まっていた10号と同じことをやります?8号の言うことに同調して、「ここ、おかしいから確認しましょう」っていうことに賛同しますよね?ある意味これも、在りたい姿と実際の姿のギャップかなと思いました。
作品としての面白さもありますが、自分とも照らし合わせてみると作品を楽しむ以上の価値が出てくる作品だと思いました。

最後にこんな作品だな。ということを書いて終わろうと思います。
笑い一切なしの会話劇で、ホッコリした終わり方もありません。ゴリゴリのヒューマンドラマや人間臭さを味わいたい人には本当にオススメです。反面、笑いどころが欲しいやかっこいい、可愛いを全面に求めるような方にはちょっと合わないかなと思いました。


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