懐くロボット

 お風呂上がりに一杯飲もうと、冷蔵庫の前に着くよりも先に、部屋のあかりを吸い込んだ銀色の腕がすっと伸びて、パジャマの袖をちょんとつまんだ。長年一緒にいる私のロボットだ。
 家のなか限定で日常的に付き纏われている自覚はあるが、満更でもない。可愛げがあって気に入っている。

 そもそも、このような生活になるはずではなかった。もう随分前の事、一人暮らしに退屈していた私は、友人の勧めもあって熱帯魚を飼う事にした。折よくその夜、ポストに暗号のようなお店の地図が届いていた。

 地図通りかも謎だが、漸く着いたお店に足を踏み入れると、とても薄暗く、かろうじて道順が見え、水族館のような藍色の空間に何枚もの分厚いカーテンが無造作にぶら下がっていた。

 所々、間接照明と共に、洗練された世界中の椅子やサイドテーブルが配され、緻密な絵画の織物が恭しく敷かれ、その上には小さな金魚鉢。
 そして、光る色とりどりの熱帯魚たちが鉢の周りを泳いでいたのだった。

 呆気にとられ、何とか状況を飲み込みながら胸に手を当てようとして、腕が何かに引っかかり袖が伸びた。
 振り返ると、カーテンを幾重にも肩に巻き込みながら私の服をつまんでいる金属製のロボットがいた。

 驚くのもほどほどに、私の視線は流れるようにそのつままれた指から腕へ、そして、空間の藍と鮮やかな魚たちの光をキラキラと映していたロボットの胸に釘付けになっていた。

 何処かに行ってしまいそうな魚より、私だけに差し伸べられた腕も魅力的に見えて、結局ロボットと、あと織物の下から覗いていたお店の番号らしきものが書かれた紙を受け取って帰った。

 正式に迎え入れたあの日から、あっという間に150年は経った。
いつも人の体温を求めているのか機械の速さでくっついてくる。それだけで会話しているみたいだ。
 話せたらどんな言葉が聞けるか、興味はある。でも言葉がなくても、私を理解しようとしてくれている気はする。実際どうかは別として。それくらいがいい。ロボットがいてくれれば、ある種の寂しさとは無縁だから。

 私たちなりに四季を楽しんできた。
 春には、開け放した窓からツバメの到来を眺め、桜と三色だんごを何本もリビングに飾ってささやかなお花見を。夏は、蝉の声を聴きながらかき氷とスイカを用意して、ベランダから毎年遠くに上がる大輪を待つ。
 
 秋は、紅葉したモミジやススキを設えてロボットをモデルに油絵を描いて芸術にたしなみ、早めにこたつを出して映画鑑賞。雪の舞い散る寒い冬は、連日のように温かい鍋を囲み、手打ちそばで年を越し、毛糸を持ってもらって編み物をする。

 特に、冬はいつになくそばにいて、氷より冷たい手をつないで来ようとするので身構えてしまう。あの瞬間だけは慣れないから。でもそんなのはご愛嬌。
 今となっては身内同然か、それ以上だ。私の表情や行動をいつも見ていてくれて、勝手にいなくなったり置いて行ったりしない存在。こんなに居心地いい暮らし、手放すものかと思っていた。

 しかし、それは突然やって来た。休日にふたりして新作映画を観ていた時の事。主人公の奇抜な部屋のシーンで、片隅にある金魚鉢が急に画面いっぱいに映し出され、熱帯魚が何匹か泳いでいた。ドクっと私の胸が強く鳴った。

 はるか昔の、あの店の情景が蘇り、変な汗が出て、私自身へそして隣にいるロボットへ、抱いてこなかった感情が湧いてきた。
 抱いてはいけないと思い込んでいたものが暴発した。

「 —わたしは!!!— 」無意識に、本能的に叫んだ。

 すぐ何かを読み取ったロボットが、私に体を向けた。すると、それまで私に重ねていた手を、ぐっと、今までにない力で握ってきた。
 徐々に圧迫されていく手は離してもらえない。状況と心境に混乱しながらも、咄嗟に片手でスクリーンの電源を切る。ところが握る力は一層強くなって震え、私の手がどうにかなってしまいそうだった。とにかくあの店の番号を!

 今度は、手だけでなくロボットの全身がカタカタと震え始めた。何が起きている?とにかく間に合ってくれと、ガラステーブルに挟んでいたお店の何十桁もの番号を急いで打った。

 すると、ロボットの胸だけが独特のリズムで振動し始めた。しかし力強く握る手は依然そのまま。どういうことだ?
 混乱しながらも、淡々と手の圧から伝わってくる、一緒に過ごしてきた暮らしの場面が、しばし静かに脳裏に過った。
 …もしかしてあの店は—。私がはっとした時、もう誰もじたばたしていなかった。

 

 手を解いて、自由になったわたしは、あらたまってロボットを抱えた。

 そして、本当はずっと呼びかけたかった呼びかたで、何度も呼んでみた。150年分の何かにならなくても何かにするような、消えそうなほど溶け込んでしなるような、私のしらなかった意図で。

 呼びかけるたびに、床に全てを預けるかのごとく、何層にもなった部品が、表面からボロボロと崩れていく。

 やがて、胸元の奥のパーツがみえたとき、感じたことのない強烈な光が放たれ、まともに受けて宙に浮かび上がり、見慣れた部屋や家を見下ろし、ものすごい速さで抜けるような青い空まで飛ばされた。

 雲に手が届きそうな距離で、雲の隙間から小さな無数の光が見えたかと思うやいなや、雲は一瞬にして風に運ばれ、わたしは光る熱帯魚たちと一緒に泳いでいた。

 これまで何事もなかったかのように、かつてみたことのある夢の続きをみているようだ。腕は何者からもふりほどかれ、また雲もとらえられない。

 まるでずっと前に…あの店でみた魚のようだ…あの店?そうだ、ロボットは?どこだ?もうあえないのか?

 問うた瞬間、独特なリズムが、胸を通り過ぎて行った気がした。わたしだけがやっとわかるほどに小さく、可愛らしく。

 そして思わず胸元をみた。
 空っぽの金魚鉢を片手でつまんだ小さなロボットが、

 “ —いけすかない— ”

 ぼそっとつぶやいて、わたしの胸の奥へともぐっていった。
 まったくそんな気がした。

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