名と体のかくれんぼ

【教育エッセイ】名と体のかくれんぼ

はじめに

「名は体を表す」と言います。ラベルが先か、コンテンツが先か。そんな鶏卵論争にも触れながら、両者の攻防(かくれんぼ)に興じてみたいと思います。約1万4千字。分割読みでも結構。気長にお付き合いくださいませ。

〈1.命名作業に想う〉

名前とは、なぜ早期に決めねばならぬのだろうか。命名とは、既製品の中からそれらしい選択肢を、直感という耳触りが悪くないだけで実は非思索的な手立てによって選ぶだけの作業なのだろうか。

年の初め、第二子がこの世に生を受け、名前の最終検討段階に入ったとき、ふと湧いた疑問である。新生児の名前は生後十四日以内に出生届に記載し市区町村の役場に届け出る必要がある。制限があるのは時間だけでなく使用できる漢字も約三千種類と限定されている。それらの条件をクリアして受理された時刻をもって、新生児は「何処の誰それ」として社会の仲間入りを果たし生きてゆくこととなる。そのときまで、新生児は家族から呼び掛けられる個人的な呼称はあっても、社会的な正式名称はない。社会の取り決めによって、そういうことになっているのだが、子の名前はなぜ生後直ぐに決めねばならないのだろうか。『戸籍法(第百三十五条)』によれば、正当な理由なく提出期限の十四日以内に出生届を提出しなかった場合は、五万円以下の過料まで支払わされる。子の性格や気質など名前を決めるに当たっての参考情報の輪郭がおぼろげにでも判明してから決めるということでは不都合があるのだろうか。

当時、私は焦っていた。音が三文字の名前とは決めていたが、直感で出てくる名前案には限界があった。命名という一生に一度の大仕事を他人事で済ますわけにはいかないという使命感と、自らの発想の限界を超越してみたいという野心を往来しながら、創作活動に掻き立てられていた。そこで、折角だからあらゆる可能性を考え尽くしたいと思い立ち、音が三文字の全組合せ約三十万通り(基本五十音・濁音・半濁音・拗音)を虱潰しに吟味していた。妊娠を知らされたその日から検討に入ったものの、産声を聞いても尚決め切れない。当然、伴侶との相談というプロセスも経なければならない。そんな、三十万余の可能性と未だ決着がつかぬタイムリミットぎりぎりの最中に、どうしても先の疑問が頭から離れなくなってしまったのである。

確かに、赤子は一人ひとり表情や泣き声や体格が異なり、個体差がそこに在るのであるが、だからといって、ならではの名前を閃くほどの個別性は我が子でも確認できなかった。当然、「どんな名前がよろしいか」などと本人と意思の疎通を諮ることは叶わない。インタビュー調査によってリクエストを聞き出し、そのストライクゾーン目掛けて投球することも、子の命名においては不可能である。需要と供給が自由度高く錯綜する資本主義社会にあって、最もニーズを汲み取るのに苦戦する手強い相手の一人は赤子なのである。自由に決めて良いということが、却って不自由をもたらす。

子の命名が生後十四日以内に必要であることは、『戸籍法(第四十九条および第五十二条)』で定められている。また、一九八九年の国連総会(第四十四回)にて採択された『児童の権利に関する条約(第一部)』には、「児童は出生の後直ちに登録される」と記されている。つまり、世界中の子どもたちが、本人の意思とは無関係に、生後間もなく名前を決められることとなっているのだ。なぜかと言えば、同条約によれば、「児童の人権の尊重及び確保の観点」であり、具体的には「児童は、身体的及び精神的に未熟であるため、その出生の前後において、適当な法的保護を含む特別な保護及び世話を必要とする」からである。

子の名前が生後直ぐに与えられなかった場合を想像すれば、与えた場合の利は確かに合点がいく。名前がないことで管理や把握がし難く、たとえば病院で誰が誰だか分からず取り違えるといった事態が多発するだろう。加えて、様々な呼ばれ方をすれば本人が本人であることを自覚できないのであるから、アイデンティティの形成も困難である。母はAと呼び父はBと呼び祖父母はCと呼ぶ、といった状況では、会話は混乱を極め、コミュニケーション上大変不便である。やはり、早急な命名には一定の効用がありそうだ。どれだけ世の中がグローバル化し、ボーダーレス化したとしても、人間は真っ先に国家に登録される。生まれては名付けられ、また生まれては名付けられ、生誕と命名を繰り返す。名もなき個人として世界に存在することは、そのことを望むかどうかの検討すら行う時間を与えられず、生涯を終えるまで叶わないのである。

〈2.先名後体と先体後名〉

ここまで、子の命名について記してきたが、万物はみな生誕後間もなく命名されているのだろうか。あらゆる物事はカテゴライズされ、名が与えられ、整理整頓されているのだろうか。『日本国語大辞典(小学館)』には約五十万個の単語が収録されており、これはつまり、日本人は約五十万個の物事に命名してきたと言える。視野をもう少し拡げれば、生物種は二百万以上が命名されており、化合物は二千万以上、そして天体に至っては十億以上に上る。これだけ多くの存在に名前が付与されていれば、もうこれ以上無名の存在などはなく、世界は解明され尽くしているのだと思うかも知れない。しかし、二〇一七年にはNASAの国際チームが地球から三十九光年離れた恒星の周りに地球に似た七つの惑星を発見したと発表し、二〇一六年には日本で新たな元素記号(百十三番目)が発見され、ニホニウムと命名されている。世界は、未解明なのである。

子の名前の場合、決定から流通までに社会的手続を伴うが、社会的手続を伴わない命名も勿論存在する。たとえば、ある箱が「ゴミ箱」と名付けられた場合、その時点をもって、その箱は汚さを帯び続ける宿命を負う。「ある箱」は「ゴミ箱」という名称を得て進む道が確定するのだ。そこに社会的手続きはなく、「この箱をゴミ箱といたします」とわざわざ役所に提出しなくとも、人々の間で共通認識が醸成されれば、「ある箱」は「ゴミ箱」と化す。「ある箱」がもし別の箱として名称を与えられていたら、全く別のタラレバな運命を歩んでいたはずである。

このように、命名の対象は子の名前に限定されない(厳密には、命名権者による命名の過程を経ずに流通した名称は正式名称ではなく通称となろうが、ここでは広義の意味で「命名」とする)。言葉を手にした人類は、多種多様な物事に名を付与してきた。物事の名称には名詞を、動作には動詞を、そして、それらをより詳しく説明するために形容詞と副詞や文章を繋ぐ際の接続詞など、実に様々な品詞を開発し物事に名を与え命を吹き込んできた。

思えば、言葉とは、そもそも物事に名前を与える作業から始まる。「リンゴ」という物体は、日本語で「林檎」と呼ぶ一方、英語圏では「apple」と呼ぶ。両者は言語上は同義であり何れも「リンゴ」のことを指すし、学校でもそのように習うわけだが、各人が想像する「リンゴ」を具に観察していくと、殆どの場合、両者の間に完全な等式は成り立たない。ある人は赤い「リンゴ」を想像して「林檎」とし、ある人は青い「リンゴ」を想像して「apple」だと取り決める。この勝手な取り決めは、同じ言語の中でも発生し得る。ある人は食べかけの「リンゴ」を「林檎」と定め、ある人は芯だけになった「リンゴ」を「林檎」だと規定する。言語上は同じ「林檎」でも、それが指し示す対象は個々人の頭の中で異なるのが常だ。普段何気なく使用している言葉にも、当人なりの勝手気ままな定義が存在するのである。何を「綺麗」と命名するか、何を「美味しい」と命名するかは各個人の感覚に委ねられる。「いいね」も「カワイイ」も同様に、それらが指し示す対象は千差万別なのである。

では、人々はどの段階で命名作業を行ってきたのだろうか。「名実一体」のように名が先か、それとも「曖昧模糊」のように体が先か。前者を「先名後体」、後者を「先体後名」と呼ぶとするならば、「先名後体」は先にコンセプトありきということだ。子の命名もこれに当たるだろう。一方の「先体後名」は新たな惑星や元素記号を発見した際の命名などが該当する。先に存在はしていたが未発見のため名前がなかった物事である。

これらのことはなにも非日常的な現象ではなく、日常でも其処彼処で起きている。前述の例で言えば、「ゴミ箱」と定めるのが先か、それとも「汚れの集積箱」を見てから「ゴミ箱」だと認定するのか。当然だが、命名が先の場合もあれば後の場合もある。「名詮自性」と言うように、名が先で後から体を成す「思考の現実化」もあれば、体が先で後から名を成す「現実の思考化」もあり得る。名は体を成すが、体も名を成す。演繹的に現実を生み出すか、帰納的に言葉を編み出すか。どちらが絶対的に正しいということはないだろう。

ただ、ひとつ言えることは、私たちの身の周りを取り巻くのは、自らが命名した物事よりもそうでない物事の方が圧倒的多数を占めるということ、世界の殆どは自分以外の誰かの命名によって成り立っているということだ。この世に後から参加すればするほど、既に命名されている物事で世間も世界も溢れ返っている。私たちはそれらの名付け親(メーカー)ではない。あくまで使用者(ユーザー)なのである。様々な名称を知り使いこなす者のことを「物知り」と言うが、「物名付け」とは言わない。概念自体が存在しないのであろう。沢山の名称を知ることはできるが、沢山の名称を付け流通させることは困難だし、既にある名称を書き換えることは、デファクトスタンダードを覆すことと同様に高難度であるためだ。

新たな発見や命名を試みようとしても、大半の物事には既に名前が与えられている状態なのである。だから、親や教師からの教えは、先人たちが命名してきた物事について知り、名称を覚えることから始まる。途中参加のプレイヤーはまずゲームのルールを理解せよ、ということだろう。その親や教師も大半は名称のユーザーであるから、ユーザー自身によるユーザー向けの処世術としては当然である。知識を増やし物事の名称を記憶し使用することは疑いもなく社会で歓迎される。言葉の使用にライセンスは不要であるし、知識量は賢さのバロメーターになるかも知れない。

しかし、ユーザーとして生きてゆくとしても、言葉のジャングルの中には、棘のある名称や一見使い勝手が良さそうだが実は毒がある名称なども存在する。死語のように使われなくなる名称もあるにはあるが、基本的に一度生まれた名称に消費期限はない。たとえ一定期間未使用でも再利用可能である。このように、基本的に名称は時とともに増加することはあっても、減少することはないのである。だから、後発ユーザーになればなるほど、生成の経緯(メイキング)に立ち会っていない名称が堆積することとなる。言い換えれば、使い道や使い勝手について、本当は「訳も分からない」存在が自分の周囲を取り囲み埋め尽くしていくのである。

〈3.命名が産み落とす副産物たち〉

では、先人たちが命名してきた物事の名称の使用に際して、何に注意すればよいのだろうか。命名によって生じる産物と併せて確認してみよう。主産物はもちろん物事の名称そのものであるが、副産物には幾つか種類がある。

一点目は、誤解の生成である。単純な例で言えば、ある人が主張する「主体性」は別の人が主張する「自主性」と全く同じものを指しているかも知れない。他にも、「義務教育」と命名されると、名称は一人歩きを始めるかも知れない。本来的な意味は児童を労働から解放するための保護者側の義務を指すはずが、児童が教育を受けることが義務だという勘違いが発生する。勘違いはさらに猛進し、「お父さんにとっての仕事はお前たちにとっては勉強だ」などと言われ続ければ、仕事はつまらないもので義務であるという固定的な仕事観が醸成されてしまう。他にも、「無駄」という名称は「排除すべし」を連想させるため、ある物事について「無駄」だという合意形成がなされれば、すぐさまそれは「排除してよろしい」という事態に発展する。そこに、詳細な検討はない。名称を与えるという行為は、それをどれだけ精緻に追い求めても、早かれ遅かれ、また、多かれ少なかれ誤解に到着するという、命名発誤解行の列車なのである。

二点目は、対概念の生成である。ある名称が与えられたとき、対となる反対の概念が自動的に存在することとなる。たとえば「白さ」は「白くなさ」をも双子のように孕む。「美味しい」と発言するということは、自然と「美味しくないもの」の存在を許容するという宣言を意味する。「いいね」も同様に、「よくないね」の存在を否定するわけにはいかなくなる。何かを「重要」と命名するとき、「重要でない」という概念も同時に成立する。「これが重要である」と発言すれば「それまでの話はあまり重要ではなかった」ということも含意してしまうということである。

三点目は、細分化要素の生成である。命名という技術を手にすれば、どのような細かな物事にも名を与えることが可能となる。顕微鏡で覗かねば確認できない物質も、人々の頭の中にしかないイメージにも、命名は適用可能である。しかし、それによって「我こそが重要要素である」という主権争いが方々で起きてしまう。私は大学の就職課で事務職員として日々学生の進路支援に従事しているのだが、大学関係者や企業人による「優秀人材」や「成功者」の要素特定をめぐる王手宣言は枚挙に暇がない。「主体性」や「コミュニケーション能力」のようなロングセラーもあれば、「IQ」や「コンピテンシー」や「グリッド」などの流行もある。国家もこの流れに同調し、「生きる力(文部科学省)」や「社会人基礎力(経済産業省)」など、社会を形成し、社会を発展させてくれる貢献人に必要な資質や能力を示している。どれも重要ではあるだろうが、それらの細分化された要素を誰がコーディネートするのだろうか。鞄や靴や衣服などそれぞれのパーツについて専門家が専門的な見地で重要だと主張する。どれももっともらしい。だが、それら全てをパッチワークのように継ぎ接ぎしても木に竹を接ぐようなもので、全体としてのまとまりや一貫性のあるファッションにはならない。各要素の命名作業に快感を覚えるのは結構だが、統合作業を蔑ろにしてはならない。

最後に、難問奇問の生成である。命名は「リンゴ」のような実存対象でも、「重要」のような非実存対象でも適用可能であるが、特に後者の場合、厄介な概念が大量生産される。たとえば、「やりがい」がそうだ。これは当人が感じ取る極めて個人的で感覚的な事柄であり、掴みどころがない。どのような状況で当人の前に姿を現すかも不確実である。ところが、概念上は「やりがい」と明確に命名できてしまい、名が付与された途端に、あたかも姿形のはっきりした実存感でもってこちらに迫ってくる感覚に陥る。言い表せたという紛れもない事実が、「やりがい」という代物がまず先に存在して然るべき、という思い込みを生じさせる。そして、その存在がなかなか確認できないとき、当人はストレスを感じ、フラストレーションが蓄積される。得られるはずのものがどこまで行っても得られない蜃気楼状態だからだ。「やりがい」と名付けたメーカーならまだしも、使用を主とするユーザーは名称に振り回される可能性が高い。名称はユーザーを弄び、ユーザーは名称を持て余すのだ。

〈4.気早な探偵たち〉

だが、別の見方もできる。ユーザーは名称に振り回されることを良しとしているかも知れないのだ。生活に欠かせない他者とのコミュニケーションにおいて、多少の誤解や対概念の存在に目を瞑り、細分化要素や難問奇問といった煩雑なことに足を踏み入れさえしなければ、名称に弄ばれ、名称を持て余すことに不満を感じることなどない可能性は十分に考えられる。

彼らは何者なのだろう。名称を知り、名称を記憶し、名称を使用することに力を注ぐユーザー。彼らは正体解明欲の強い慌てん坊である。それも、自ら「体」の正体を暴き「名」を付けたいわけではなく、メーカーが付けた名称をいち早く知りたいという欲求だ。極端な言い方をすれば、彼らの興味対象は既に「名」が付与されている「体」のみである。「名」についても、精緻な名称は必要としておらず、解明さえできればミッションはコンプリートなのである。たとえば絶景を見たときの感想として、「綺麗」「美しい」以外の潤沢な表現が用意されていなくとも一向に構わない。彼らが求めるのは、目前の物事を寸分の隙間もなく言い表す厳密で精密な名称ではなく、それ相応に沈黙を免れられるだけの、埋め合わせや時間つぶしのための名称なのである。だから、「カワイイ」や「スゴイ」のように代用し易く使い勝手の良い名称があれば十分に事足りる。それはまるで、真犯人かどうか見極める前に犯人らしき人物を見つけた時点で早合点し、すぐさま次の事件へと進む、気早な探偵のようである。

彼らは正体が解明できないときの心地悪さに耐え切れないだけであって、正確無比な表現を欲しているわけではない。正体を解明する目的は、あくまで居心地の良くなさからの解放である。だから、解き放たれさえすれば安心する。自ら物事を発見し命名したり、既存の名称に別の名称を付与したりという行為には些かも興味を示さない。未知の物事に遭遇したとき、名称が存在しなければその物事はスルーし、存在するのであれば最も簡単に使いこなせるものをチョイスするまでだ。それが、記憶すべき名称が時代とともに累進する世界の中で、気早な探偵たちが身に着けた生存戦略なのである。

気早な探偵たちは、直感的に言い得て妙の表現があれば乱用する。「秒で(秒速のように迅速に)」「り(了解)」などが一例だ。「連絡が来たら秒で返してね」「り」などのやり取りは、良い悪いの物差しを超越して、コミュニケーションとしては巧みである。

ただし、警鐘も鳴らしておきたい。正体解明欲に駆られて拙速を尊ぶあまり、チャンスの芽を自ら摘んでしまうこともある。たとえば、「結局は学歴でしょ」と社会を動かすメカニズムを解明した気になってしまっては、社会の階級は固定化し、流動性は失われ、結果的に自らの機会を損失することとなる。

〈5.命名と人集め〉

気早な探偵たちにとって、誤解や対概念といった命名の副産物は無視して差し支えのないものなのだろう。だが、細分化要素や難問奇問は無視できない。或いは、無視すると生活にまで支障を来すことがある。

その最たる例は、人々の心と体が動かされる「人集め」の場面である。日常の「人集め」では生活に支障を来すほどの事態には発展しない。たとえばラーメン店の「客集め」を例に考えてみよう。「旨辛ラーメン」に惹かれて入店し意気揚々と「旨辛ラーメン」を注文したが、食べてみたら想像していた「旨辛」とは違っていたとする。このとき、顧客にとって生き死にに関わるほどの致命傷になるかといえば、そうはならないだろう。しかし、人材がやり取りされる採用の場合の「仲間集め」ではそうはいかない。誤解や勘違いにより重大な「こんなはずじゃなかった」が発生し得る。客やファンはいつでも関係性を解消できるが、ひとたび仲間になると関係性解消には手間が発生するからだ。では、「仲間集め」にはどのような「こんなはずじゃなかった」があるだろう。採用現場で何が起きているのだろうか。

私自身は新卒領域でこれまで仕事をしてきた。自社の新卒採用に携わり、新卒採用したい企業の支援をし、現在は新卒採用されたい大学生のサポートに従事している。自身の就職活動経験と合わせると、四つの視点を行き来してきたことになる。新卒領域における命名で生じる副産物は、たとえば先ほど見た「やりがい」が挙げられるが、ここではもう少し詳しく、採用側と被採用側のそれぞれについて確認したい。

まず、採用側だが、彼らはメーカーになろうと努める。「仲間集め」のために「尖った人材」や「エッジの効いた人材」といった細分化要素を創り出し、広報を展開する。この指とまれ方式で人材を集めるための工夫である。だが、この感覚的で抽象度の高い細分化要素についての共通認識を持つことは容易ではない。社内の人間達であれば確かに「尖った人材」や「エッジの効いた人材」を見聞きし理解するのかも知れないが、未遭遇の学生達にそれをイメージさせるのは困難である。加えて、「尖った人材」は「尖った人材ようこそ」と募集されたところに集わないからこそ「尖った人材」たり得るという気もする。自ら尖りたくて尖るという発想自体をせず、こちらに見向きもしていない人材こそ「尖った人材」なのではないだろうか。易々と宣伝で誘われたミーハー人材の中にどれほどの「尖った人材」が存在するのか、混交する玉石の比率はいかほどか、疑問は残る。もちろん、そもそも「尖った人材」は世の中に一握りだという前提に立脚しているのかも知れないが、何れにしても、結果、採用側が望む「尖った人材」も「エッジの効いた人材」も集まらない。自ら募集文句を命名するメーカーの中には「仲間集め」に成功しているところもあるだろうが、他者が命名した募集文句を粋に感じ、飛びつき、模倣している組織があるとすれば、いつまで経ってもお望みの仲間は集まらない。「こんなはずない」と嘆くばかりだろう。

次に、被採用側だが、彼らは既存の名称に振り回されないよう賢明でスマートなユーザーであろうと努めるのに必死だ。先ほどの「やりがい」と同様に「モチベーション」も、先に在るものだと認識してしまう。だから、「モチベーション」がない自分に嫌気が差し、「モチベーション」がなさそうな仕事や社員には魅力を感じるものかと決め込む。他にも、「自己分析」というそれらしい四字熟語を疑いもすることなく盲信し、己でもって自らを完全に分析でききるものだと意気込み、オペに向かう外科医の如く自信満々に自己解体に励む。「やりがい」も「モチベーション」も「自己分析」も、それらは本当に存在するのか、そもそも意味があるのか、不毛な奇問ではないのだろうか、そうした根本を問い掛け吟味することなく、無批判且つ無防備に受け入れる。それはまるで出された食事の使用食材や栄養やアレルギーなどを調べず即座に口に含み咀嚼もせず鵜呑みし、一定程度の満腹感をもって満足する迎合的で奴隷的な行為である。結果的に採用されるに至らなかったり、採用されても想定どおりの「やりがい」が舞い降りてこない限りは「こんなはずじゃなかった」と「モチベーション」をダウンさせるのである。これが、無いものを在ると信じた結果だったとすれば、実に不幸である。

両者が共犯的に信じて疑わないこともある。ひとつは、「動機」や「きっかけ」といった難問奇問である。面接で志望動機を問われた学生は「待ってました」とばかりに前傾姿勢で回答する。採用側も「志望する動機があるはず」「きっかけがあるはず」という前提で質問を開始し、回答を期待する。概念上は無尽蔵に生成されてしまうのが難問奇問であるから、どちらも志望動機の存在を疑わない。だから、それがうまく言えない場合に不採用となったり、自信を喪失したりする。犯罪の取調べでも同様だが、「動機」や「きっかけ」が「あってほしい」と願うのは質問者側の事情であり、回答者側は「実はそんなものは存在せずノリだった」というケースも少なくない。後付けで物語りを紡ぎ、相手が理解しやすいフォーマットに仕立て直して差し出す編集作業は幾らでもできるだろうが、仲間集めの際に事実無根の虚構をやり取りすることにどれほど意味があるのだろうか。

また、採用後まで視野を伸長すれば、かつて「あった」とされ、現在は「なくなりつつある」とされる「終身雇用」も注意が必要な名称であることに気づく。「終身雇用」は、米国の経営学者ジェイムズ・アベグレン氏がその著書『日本の経営』で示した「lifetime commitment」を起源とする説から、江戸時代の丁稚奉公制度に起源を見出す説まで多岐に亘る。しかし、何れにしても、社会的手続を経て成立しどこかに明文化された状態で保存されている類の制度ではなく、あくまで人々の頭の中にある概念的慣行であった。「lifetime commitment」という名称からは「終身に亘って雇用する」という確約性は確認できず、あくまで「コミットメント」である。

コミットメントとは、たとえば通販番組で一定期間の返品や返金を受け付けるクーリングオフが象徴的だが、事前の宣言を示しているに過ぎない。「それくらい自信がある商品です」というわけだ。もちろん、実際に消費者が購買行為の後にクールダウンして返品や返金を申し出てきた場合は対応するが、ごく一部の顧客でのみ発生する案件である。「終身雇用」も、「生涯に亘って面倒を見る」とは謳っておらず、「それくらいの覚悟と制度でもって従業員の皆様に対峙します」という事前宣言に過ぎない。しかし、名称は独り歩きを始める。義務と権利のバランスが崩れた安住希望者達にとって「終身雇用」とは、大した努力や貢献を提供せずとも安心して安全と安定を手にすることのできる夢の国だと解釈したのだろう。だから、「次長」という役職が「次は長になるしかない」「なれればハッピー、なれなければアンハッピー」という極めて限定的で単線的なキャリアとして設定され、他の道を自らの意思で歩むことが許されない不自由で窮屈でハイプレッシャーなポジションを示す名称だということに些かの疑問も反抗心も持たない。有り難く頂戴してしまう。

考えてみれば「就職」という名称も、現状の日本の労働環境には馴染まない。医師や教師や美容師は、職に関わる資格を得て職に就くことができ、その後所属組織が確定する。その後、職場が変わることはあっても、自ら意思を発動したり解雇処分などを受けない限り、職種が変わることはない。こうした職業人の場合は「就職」であろう。しかし、専門的なライセンス取得の必要がなく会社に採用され、雇用後に配置転換などで職種に変更可能性がある場合は「就社」の方が適当であろう。

これまで見てきたように、採用する側も、採用される側も、名称に蝕まれている。命名に苦心する採用者と名付けられた名称に翻弄される被採用者。両者に共通するのは何だろう。それは、メーカーではなくユーザーという立ち位置を選択しているという点だ。誰かが命名してくれた名称を使用するユーザーでいることは、メーカーとして産みの苦しみを味わうより短期的には楽である。自ら命名することを放棄し、他人の命名した名称を、特に注意も敬意も払うことなく付和雷同的に使用する。特許や著作権で保護される類の名称でない限り、それが許されるのが言葉である。客集めやファン集めならば、関係性が一組織や一個人に限定されるため「コスパ」が良いと考えるのかも知れないが、仲間集めの場合はそうはいかない。仲間が集まらず採用側の組織が人材枯渇に陥るのはもちろんだが、各組織が同じような宣伝文句で同じような人材を要望し、同じような人材が育まれれば、社会全体が望む多様性や個性は程遠く、画一化の一途を辿る。インプットが同じであればアウトプットも大概は同じだからだ。オリジナルの人材を望むのであれば、オリジナルのインプットが求められる。言い換えれば、画一的な仲間集めは画一的な人材輩出という社会問題にも発展し得るのである。

〈6.命名と人づくり〉

画一的な人材の輩出については、ゆとり教育にはじまり、これまでの教育の方針や内容が槍玉に挙げられるが、何のことはない。言葉を吟味せず人材をリクエストしてきた需要側と、それらの言葉を咀嚼することなく人材を即席的にクリエイトしてきた供給側の、双方が織り成す想定どおりで予定調和的なコラボレーションであっただけだ。大学が全入時代に突入し、毎年数十万人の大学生が社会に出る。マッチングは量的には達成していると言える。寧ろ、リズミカルな椀子蕎麦のように、阿吽の呼吸で見事なまでにうまく成就し過ぎたくらいではなかろうか。

情報処理に長け、反復練習やパターン学習を通じて高速処理できる人づくりを推し進めてきたのは紛れもない私たち自身である。物分りの良い羊を一心不乱に育て上げ、いざ育ってみたら物分りだけが良いことに不満を示し、AIや機械に取って代わられると挙って騒ぎ立て、ついには羊たち自身に「もっと多様であれ」「もっと個性的であれ」と手の平返しで要求する始末。

遡れば、戦後の日本における人づくりは一貫して産業界からのリクエストベースである。戦後五十五年間の主要経済団体(経団連、日経連、経済同友会等)から出された教育関連提言・人材要請に関する提言二百余りを調べた飯吉弘子氏の『戦後日本産業界の大学教育要求』によれば、各時代のリクエスト概要は次のとおりである。すなわち、一九五〇年代から一九六〇年代は量的要求中心の時代、一九七〇年代は質的要求の時代、一九八〇年代から一九九〇年代は創造性要求の時代、二〇〇〇年代は要求の頻繁化・多様化・詳細化の時代である。具体例でいえば、算盤教育、コンピューター教育、英語教育、週休二日制の導入、そして現在のアクティブ・ラーニングやプログラミング教育など、リクエストは多種多様である。

こうした産業界からのリクエスト自体がナンセンスだということではないし、その中身が全て的外れということでもない。ただ、リクエストに忠実に従おうとすればするほど、リクエストが示す「創造性」や「多様性」は遠退いていくということを申し上げておきたい。教育活動にはタイムラグがある。今日教えた全てのことが明日すぐさま実践でき途中効果や最終成果が目に見える形で現出するわけではない。今リクエストされたものをつくっても完成する頃には既に御役御免で「状況は変わっている」と一蹴される可能性が十分にあるのだ。そのときになって後悔しても後戻りはできない。産業界のリクエストに耳を傾けるのは結構だが、ご注文をお伺いしてから作り出す受注生産では、物理的に後手に回らざるを得ないということ、そして、その間に状況は変化するということを認識せねばなるまい。人づくりに携わる全ての関係者には、リクエストを鵜呑みにして御用聞きに成り下がるのではなく、リクエストの中身を再解釈したり再命名(リメイク)する咀嚼作業が必要であろう。ものづくりのプロが期待を超えるように、人づくりのプロは要請を超えねばならない。

〈7.名探偵への道〉

人集めだけでなく人づくりにおいても、命名は放棄され、メーカーよりもユーザーの立場が選ばれやすい。確かに一言一句について定義を確認し立ち止まるとなると途方に暮れる。そんな悠長なことをしていては、人とのコミュニケーションは取れない。私たちは、言葉の定義作業をひとまず中断し棚の上に仕舞っておくことで、日々の生活を営んでいる。「なんとなく」でこそ他者との会話は成り立つ。「これは私が考えるリンゴではない」などと言い出せばスーパーでの買い物はままならないだろう。

だが、「なんとなく」で済ませるには機会損失が大きすぎるとき、一時停止していた言葉の定義作業を棚の上から降ろし、メーカーの視座や視野に思いを馳せる営みは必要であろう。言葉はいま、あまりにも会話機能が肥大化しているため、思考機能としての活用が蔑ろにされつつある。先ほどの産業界のリクエストでいえば、企業が選考時に重視する要素のひとつは二〇〇〇年から一貫して「コミュニケーション能力」であり、二〇〇四年からは十五年連続で第一位だ(一般社団法人 日本経済団体連合会『新卒採用に関するアンケート調査結果の概要』)。

それほどまでにコミュニケーションが求められるから、求められた側は当然コミュニケーション能力を磨くこととなる。コミュニケーションの手段は言語・非言語あるものの、鍛え易さ・伸ばし易さ・伝わり易さなど総合的に判断し言語が選ばれることとなる。結果的に、言語のコミュニケーション機能ばかりが照射されることとなる。しかし、「リンゴ」のイメージが各人で異なるように、本来、他者と頭の中のイメージを完全同期することは不可能である。では言語は大した機能がないかといえばそうではない。そこで忘れてはいけないのが思考機能である。

出来合いの既製品に溢れる時代。オリジナルやオーダーメイドなど自分だけの一点ものの商品を求める声は少なくない。誰だって私だけのオリジナルな人生を歩みたいだろう。であれば、オリジナルな言葉も持っておいて損はない。誰かとの意思疎通のためではなく、自らの思考を研ぎ澄ますために。なにせ、どれだけ詰め込んでも重くならないのが言葉だ。言葉を携帯するのに大きな鞄は必要ない。約二瓩弱の脳があれば十分である。

私たちが日々使用しているものの中で圧倒的に既製品が多いのは、実は言葉なのである。装着品の刷新もよろしいが、言葉の衣替えをはじめない限り、いつまで経ってもオリジナルな人生は歩めない。

探偵諸君、オリジナルな言葉を使ってみてはいかがだろうか。名は体を成し、体も名を成す。既存の体に付けられた名を改名し、未知なる体に自ら名を与えてみないか。既存の名を捜査するだけのユーザー探偵ではなく、未だかくれんぼ中の彼らを探し出し名付けるメーカー探偵として、再出発しようじゃないか。名の捕獲は知的な興奮をもたらしてくれるが、名も無き体の発見は創造的な興奮も伴う。名探偵とは、知識に富み既存の名を沢山知る探偵のことではなく、未知との遭遇を楽しみ自ら名付け命を吹き込む命名探偵のことである。

ここで、冒頭の問いに戻りたい。子の命名がなぜ出生後直ぐになされるべきか。私たち後発の探偵にとって、世界の時計が進み、世界が解明されればされるほど、名付けを経験できるスペースが狭まる。だからこそ、子と対面後に直ぐ名を与える命名の作業は尊く、名付けを放棄し正体解明に傾倒しがちな私たちをニュートラルポジションに引き戻す稀有な機会なのだろうと思う。

そうこうして漸く名を与えられた三十万分の一の奇跡は、そんな親の意気込みも命名の苦悩も露知らず、すやすやと眠りに就いたのだった、コミュニケーションも取らずに。私は、引き続きかくれんぼ中の名と体を探しに、今日も出掛けようと思う。

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