【一人読書会】道徳の系譜学 第5回

ニーチェ著・中山元訳「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)の読書記録。
以下本編開始。


第一論文 「善と悪」と「良いと悪い」

三 有用性の仮説

 イギリス心理学者の道徳説の欠点をさらにあげつらう。今度はその説明に矛盾があると指摘する。彼らによれば、もともとの「良い」は、利他的な行為が相手から称賛されるときに使われたが、その起源が忘れられて、どんなときも利他的な行動を「良い」と表現するようになったという。しかしその起源は忘れられているのか?わたしたちは子どもを教育する上でも利他的な行動を称賛し、その子供も大人になる頃には同じように自分の子供に同じような道徳教育をするだろう。どこに忘却の余地があるのか?常にその起源は意識されているといえるのではないか?

 ここでニーチェはスペンサーを引き合いに出し、かれの主張自体には賛成しないが、イギリス心理学者を非難する点では一致しているとする。スペンサーは「良い」という言葉を「有用性」という言葉とイコールで結んだ。つまり、目的に適う行動をすることは良いということだ。
 ニーチェはこの説を合理的であると評価しながらも、この説明自体は間違ったものとして切り捨てている。

四 良いと悪いという語の起源

 ここまでニーチェはイギリス心理学者の道徳起源説を非難してきた。はて、ニーチェ自身の説はどうのようなものか。ニーチェは「良い」(ドイツ語でグート)が、さまざまな言語において、どんな語源をもっていたかを遡ることによって道徳の起源を探ろうとした。以下引用してみよう。

 どの言語でも、身分の高さを示す「高貴な」とか「気高い」という語が根本的な概念であり、そこから精神的に「高貴」で「気高い」という意味で、「精神的に高潔な」とか「精神的に特権をもつ」という意味で、「良い」という語が生まれてきたのである。

 利他的な行動をしたから良い子だねと褒めるのが「良い」ではなく、「高貴」で「気高い」ことが「良い」のだ。

 それと並行して「悪い」という言葉も生まれる。これは上の引用の「良い」とは反対の意味になる。これも引用しよう。

 これ[「良い」という語]とつねに並行するように、別の系列が発展した。これは「卑劣な」「賎民的な」「下層の」という語を、ついには「悪い」という概念に変えてしまうものである。

 その傍証として、ドイツ語の「悪い」(シュレヒト)をあげている。
 シュレヒトは「素朴な」(シュリヒト)と同語であったらしい。そこには「悪い」というニュアンスはなく、貴族と比べて何もない人のことをさしていた。それが三十年戦争の頃に、「悪い」というニュアンスが加わったのだそうだ。
 ニーチェはこの事実を、道徳の系譜学において極めて重要な事実であると指摘している。このことが発見されるのに時間を要したことについて次のように語っている。

 この洞察がえられるのにこれほどの時間がかかったということは、近代世界における民主主義的な偏見が、すべてのものの起源の考察を妨げる影響をもたらしているためなのだ。この偏見は、自然科学と生理学という、一見したところきわめて客観的な学問分野にもはりこんでいるのだが、それについてはここで指摘しておくだけにする。

 ここで民主主義に対する当たりが強い発言がみられる。民主主義偏見とは何か?ここで、距離のパトスとは正反対な態度が民主主義的なものであるということを確認しておく。距離のパトスとは、貴族の人たちが感じる、賎民と違った存在であり、そんな奴らとは距離をおきたいという感情のことであった。これは明らかに平等を謳う民主主義とは反りが合わないだろう。自然科学も条件を整えることで、いつ・どこで・誰がやっても同じ結果が得られることに焦点を絞るという点で、平等の原理を取り入れている。その点において、民主主義が客観的な学問にもはいりこんでいるとしてきているのだろう。

五 戦士としての良き者

 この節では、さまざまな言語(イラン語・スラブ語・ギリシャ語・ラテン語)を例にとって、「良い」という語が貴族的・戦士的なものといかに関係しているかを例示している。この部分は事実的記述であり、私にはその真偽を判断する知識がないため、ここはこれ以上首を突っ込まないようにする。

六 司牧階級における危険な転換

 支配階級である力の強者が使う、自身の身分の素晴らしさを表現する「良い」という言葉。それが何らかの精神的な「良さ」へと転換していくことをみてきた。政治的な優位性を示す概念が精神的な優位性を示す概念へと変換していくということだ。
 司牧者が政治的優位な位置にあるとき、「清い」という彼らの身分を表す言葉が、何らかの精神的な「良い」という意味に変わっていくという現象も起こる。
 「清い」という言葉は、何らか神秘的な響きを持つが、もともとは身体を清潔に保っているほどの意味だったのだ。

 司牧者は潔白なことを善とし、そうでないものを罪人として断罪する。その潔癖すぎる善悪の価値評価は自信にも向けられることになり、自身をも罪人として断罪する。それは司牧者が貴族階級を構成することで起こる本質的な現象なのだという。そのことは今後詳しく語れるのだろう。

 さらに司牧者で構成される貴族階級に何らかの不健全なところがあるのを指摘する。次の通りだ。

 この階級では、行動することを避け、半ば瞑想的で、半ば感情を劇発させるような習慣が支配的である。いつの時代の司牧者にも、内臓の疾患と神経衰弱がつきものであるが、これはこうした習慣から生まれたものなのだ。

 そうした病気に悩まされる司牧者たちは、それを治療するために断食・禁欲などを実践することで逃避しようとした。しかしニーチェは、この治療する行為の方が病よりも危険なものであると指摘している。仏教の目指すニルヴァーナという境地は、虚無を目指すことだと断言し、その虚しさを嘆いている。

 一般にニヒリズムといえば、神を信じない態度のことをいうだろう。しかしここでは、神と合一することをニヒリズと表現している。信心深く瞑想し禁欲的な生活をするものこそ虚無主義なのだ。
 そんな神=虚無と合一を目指す司牧者にとって、すべてのものが危険になると指摘する。引用しよう。

 高慢さ、復讐への好み、明敏さ、放埒、愛、支配への欲望、徳、疾病もまた危険なのだ。

 このように司牧者のことをあげつらいながらも、このような指摘もする。

 人間のこの本質的に危険な存在形式、すなわち司牧者としての人間を土台とすることで、初めて人間は興味深い動物となったのである。司牧者としての人間において初めて人間の魂が、より高い意味で深みのあるものとなったのであり、邪悪なものとなったのである−そして人間がこれまでほかの動物たちよりも優越してきたのは、この二つの根本形式においてなのだ!……

 「深み」と「邪悪さ」。これが司牧者によってもたらされ、人間は興味深い動物となった。
「深み」とは内面のことだろう。表面は笑顔でも、心の奥底では何かを考えているかもしれない。
 素朴な人間は嬉しいときは騒ぎ、悲しいときは涙ぐみ、怒っているときは怒鳴りつけるだろう。そこには裏表はない。いや、裏表という考えがそもそもないだろう。そのまま表出しているものがその気持ちなのだから。笑顔だが怒っているのかもと考える間隙はない。
 対して司牧者はいつでも平静を装う。そこに外見と内面の間隙が生まれる。これが「深み」だろう。そして表面上はポジティブなものが表出されていながら、内面にネガティブなものがあるとされるとき、そこには「邪悪さ」が宿るだろう。


 今回はここまで。

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